(31)チャンミンせんせ!

 

 

チャンミンはベランダの手すりをギュッと掴んで、ぎりぎりまで身を乗り出した。

 

ユノは自転車をマンションの駐輪所に停め、エントランスの前で何やら迷っているようだった。

大きく膨らんだ白い買い物袋を下げている。

 

(ユノは僕んちを知っている。

『なぜ?』なんてどうでもいい。

住まいを突き止める程、ユノは僕に夢中なんだ!)

 

視界からユノの姿が消えた。

 

「あっ!」

 

オートロックに阻まれたらしく、姿を現わしたユノは辺りをキョロキョロ見回している。

 

(ああ。

あの時、電話番号を教えてあげればよかった。

規則だのなんだの、こだわった僕が馬鹿みたいだ。

ユノの電話番号だって覚えないようにしていたし。

今から下りてゆけば間に合うかな?)

 

チャンミンが真上から見守る中、ユノはマンションの前に停めていた自転車に買い物袋を戻すと、自転車にまたがった。

 

「!!」

 

(コンビニの約束をすっぽかされたと思われていたら...!

もう見込みがないって、僕のことを諦めてしまう!

このままだと、ユノは帰ってしまう!)

 

「ユノさん!!!!」

 

気付いたらユノの名を呼んでいた。

 

チャンミンの大声は、真向いのマンションに反響して、深夜の通りによく響いた。

 

真上から自分の名前を呼ばれて、ユノは勢いよく振り仰いだ。

 

(えええええ~~~!)

 

6階の高さからこちらを見下ろし、手を振る者がいた。

 

「せんせ!!」

 

チャンミンに応えて両腕で手を振ったせいで、ハンドルを離してしまった。

 

自転車はがしゃんと派手な音をたて横倒しになった。

 

『今から、僕は』

 

チャンミンは親指で自分を指さした後、その指を下に向けた。

 

『下にいくので』

 

大声は近所迷惑になるため、ゆっくり大きく口をパクパクさせている。

 

『ユノさんは...そこにステイしててください』と、ユノを指さした。

 

『分かりました!』

 

ユノはうんうんと大きく頷き、承諾の意味を示すため、両腕で丸を作った。

 

バルコニーからチャンミンの姿が消えた。

 

エントランスまでユノを迎えに向かったのだ。

 

(生きててよかった)

 

ユノはじんとこみ上げる幸福感に浸っていた。

 

歩道には、買い物袋から飛び出た食べ物が散らばっている。

 

チャンミンを待つ間、ユノは倒してしまった自転車を起こし、それらを拾い集め始めた。

 

おにぎりを拾おうと身をかがめた時、鼻の奥がつんと痛んだことに、ユノは素直に驚いた。

 

「え...嘘だろ」

 

まぶたを擦った指の背が濡れていた。

 

(俺って重症。

せんせにまともに相手にしてもらっただけで、泣けてくるんだぞ。

凄い好きなんじゃん...)

 

ハハっと苦笑していたところ、チャンミンのマンション前をウロウロしていた姿を見られていたことに気づいた。

 

(やっべー、どうしよう。

せんせはどのあたりから、俺を見ていたんだろ。

たまたま通りかかったと言い訳したら通じるかどうか...)

 

チャンミンは1階に到着したエレベータから出ると、正面玄関前に立つユノの姿を真っ先に見つけた。

 

ユノは悶々と考え事に夢中のようだった。

 

「ユノさん!」

 

ユノの目の前の自動ドアが開き、出迎えに来たチャンミンが現れても、ユノは一向に気づく様子はない。

 

「ユノさん...」

 

「ひゃっ!」

 

ポン、と肩を叩かれて、ユノは心臓が止まりそうになった。

 

「寝過ごしちゃって...ごめん。

待たせたね」

 

「せんせ...来ちゃいました」

 

「ほんとにごめんね」

 

この照れ笑いで、「指導員と教習生の壁が消えた」と、2人とも同じことを感じていたのだ。

 

 

「せんせはお腹空いてますか?」と、ユノは買い物袋を持ち上げて見せた。

「いや...それほど」

 

つい正直に答えてしまったチャンミンに、「空いてませんか、そうですか...」とユノはがっかり肩を落とした。

 

ユノから、誘って欲しいるオーラが出ている。

 

(教習生を部屋に上げる。

連絡先の交換よりも罪が重い!

ルールは守るべきものだ)

 

チャンミンは迷った。

 

(どうしたらいいのだろう)

 

断られる確率40%と覚悟していたユノは、ため息混じりに「ですよね」と言った。

 

ユノは思う。

 

(後先考えず、せんせんちに押しかけてしまったけど、せんせの立場で生徒を部屋に招くなんてもってのほか。

浅はかな俺は子供だな。

せんせ、困ってる。

でも!

せんせの判断に任せていたら、前進しない!

俺が卒業した後も繋がりが持てる種を撒いておかないと!)

 

「あの~、せんせ」

 

ユノは胸の高さの挙手をした。

 

「ルールは破るためにあるのではないでしょうか?」

 

「え?」

 

「せんせ、迷っているでしょう?

俺を家にあげていいかどうか...めちゃめちゃ迷ってるでしょ?」

 

「......(ドキ)」

 

「電話番号もダメだったのにね。

俺が押しかけてきちゃって、せんせ、困ってますよね?

バレたらヤバいことになっちゃうんですよね?

ニュースで聞くじゃないですか、教え子に手を出した教師の話です。

生徒から誘っておいて、教師をその気にさせてそういう関係に持ち込むんです。

そのうち交際してたのがバレてしまって大騒ぎになっちゃう事件です。

そうなるんじゃないか...せんせは恐れている」

 

(ユノの言う通りだ)

 

(僕が怖がっているのは、ルールを破ることじゃない。

交際に至ったあと、『いつ』その恋人が自分に愛想を尽かすのか。

相手がノンケだった場合、『いつ』女子のもとへ戻ってしまうのか。

これが怖いんだ)

 

規則で禁止されているだけが理由じゃないのに、そう言い訳して心にセーブをかけていた。

 

(怖い...でも、進みたい。

プライベートで会いたい...教習車の中ではなくて。

恋をしたい...とっくに恋をしているけれど。

今、ユノが目の前にいる...突っぱねて彼を帰してしまっていいのか!)

 

「俺、口にチャックしてます。

絶対に内緒にしますし、もうすぐ卒業するし...。

卒業してしまえば、先生とか生徒とか関係なくなります」

 

「そうだね...もうすぐ、だね」

 

チャンミンはユノの手から買い物袋を引き取った。

 

「うちに来ますか?」

 

「!!」

 

「僕の部屋でこれ、食べましょうか?」

 

「いいんすか!?」

 

「そのつもりで来たんでしょう?」

 

「そうですけど...いいんすか?

俺、教習生っすよ?

いいんすか?」

 

ユノは嬉しさのあまり、チャンミンの周りをじゃれつく犬のように、くるくる回った。

 

「自分で言ったんでしょう、ルールを破れって。

よく考えたら、男同士だから噂をたてられる心配はないですからね」

 

「あー、そうすね!

せんせも俺も男じゃん。

何を心配してたんでしょうね、はははは」

 

2人はエレベータに乗り込んだ。

 

「同棲してるみたいですね。

ね、せんせ?」

 

「な、なんてこと言うんですか!

せ、生徒と同棲だなんて」

 

「あら...。

せんせ、リアルに想像しちゃいましたか?」

 

エレベータは6階に到着した。

 

(つづく)