(45)チャンミンせんせ!

 

 

×〇地方にある教習所、自動車学校から資格取得を目指す指導員がここに集合する。

 

3日後の検定日に備え、彼らは講習と実車練習に明け暮れるのだ。

 

車で1時間程度の距離で、チャンミンは午前9時には現地入りした。

 

場内コースと講義棟の隣に、部屋数20の宿泊棟があり、チャンミンにあてがわれた部屋は、1階の角部屋だった。

 

チャンミンは窓を開けて部屋の空気を入れ替え、用意されたシーツと枕カバーでベッドメイキングをした。

 

窓の外は雑草はびこる砂利敷きの駐車場になっている。

 

現地入り1番乗りしたチャンミンの愛車は、真正面の電柱側に駐車されている。

 

食事は外食するなり食料を買ってくるなり、各自で済ませることになっている。

 

(こういった施設は大概、へき地にあるため、周辺に店はない。酒やつまみ等は大目に持ち込んでくるべし)

 

午後から実車練習のために車とコースが開放されるので、それまでの間は自由時間だ。

 

手の中のスマートフォンをイライラと、先ほどからもてあそんでいた。

 

荷ほどきも終え、室内でじっとしていられなくなったチャンミンは、共用風呂と洗濯機置き場、ロビー、2階廊下などを落ち着きなくうろついていた。

 

チャンミンは迷っていた。

 

スマートフォンのディスプレイに表示されているのは、ある番号。

 

ユノの電話番号だ。

 

昨夜、まるちゃんのスマートフォンを借りた際、こっそり素早く暗記したのだった。

 

検定スタートは午前9時で、教習簿の提出順で受検番号が決まるため、ユノは最後だ。

 

ロビーの掛け時計は10時半を示していて、ちょうど出番を待っている頃だ。

 

(エールを送ろうか?)

 

発信ボタンをタップしかけて、その指を引っ込める。

 

(駄目だ)

 

宙でくるくる円を描いていた指が、ディスプレイに戻ってきたが、迷った挙句、その指で電源を落とした。

 

(駄目だ...集中しているユノの邪魔をしてしまう)

 

「はあぁぁ...」

 

ベッドに仰向けに横たわり、目をつむった。

 

心臓の鼓動が早いし、汗もかいている。

 

「ユノ、頑張れ」と、つぶやいてみたりして。

 

時間を確かめてはため息をつき、何度も寝返りをうっては、枕を抱きしめた。

 

時おり、スマートフォンに何かしらの通知がきていないか確認していた。

 

スマートフォンはしん、としている。

 

(連絡がこないんですけど...Kの奴、何してるんだよ)

 

チャンミンは目を閉じ、意識を深いところまで飛ばして想像した。

 

チャンミンのまぶたの裏は、まるでスクリーンになったかのようだった。

 

ユノの姿が映っている。

 

緊張のせいで固い表情をしている。

 

姿勢よくベンチに腰掛け、指は落ち着きなさげに太腿を叩いている。

 

私物は全てロッカーの中で、『運転の心得』教本も、スマートフォンも目にすることは一切できない。

 

気を紛らすことも出来ない。

 

ユノはかつて、絶望的に運転センスがなかった。

 

何時間も補習を受けた。

 

あまりに下手な自分が情けなく、涙を流したこともあった。

 

うまくやれるだろうか...?

 

 

待機所のベンチの前に検定車が横付けされた。

 

ユノ直前の受検者の検定が終了したのだ。

 

『検定中』という行燈をのせた検定車を見るだけで、緊張度がぐっと上がった。

 

検定員はユノの教習簿と採点用紙のボードを手にしている。

 

「受検番号12番の方」

 

「はい」

 

ユノははきはきと返事をすると、胸いっぱいに息を吸い込み吐いた。

 

つい今ほどまで、ドクンドクンと響いて自ら緊張を煽っていた心臓の音が大人しくなった。

 

「よろしくお願いします」

 

ユノが頭を下げると、検定員は「では、始めます」と検定開始を合図した。

 

 

ユノは検定車の周りを1周し、発車を妨げる物はないか、下を覗き込んで猫がうずくまっていないかチェックした。

 

前後を確認し、運転手側のドアを半分だけ開け、素早く教習車に乗り込んだ。

 

シートベルトを締め、シートの位置を直す時、「どちらが先だっけ?」と迷いが出たが、そこにこだわりすぎないよう意識した。

 

サイドミラーとバックミラーを調節する。

 

エンジンをかける。

 

クラッチを踏み、ファースト・シフトに入れる。

 

サイドブレーキを解除する。

 

前と後ろ、バックミラーを確認し、方向指示器を出す。

 

もう一度、確認する。

 

大人しかった心臓が、暴れ出した。

 

もう一度、深呼吸する。

 

「よし」とつぶやく。

 

ブレーキペダルを離す。

 

クラッチペダルを徐々に離す。

 

検定車はなめらかに走り出した。

 

クラッチを踏む。

 

セカンド・シフトに入れる。

 

 

意識して肩の力を抜いた。

 

『肩に力が入っていると、全身の関節の動きも固くなります。

マニュアル車は特に、膝が大切ですからね』

 

チャンミンせんせの声が、すぐに肩に力が入ってしまうユノに心の余裕を与えてくれる。

 

ユノの運転は、チャンミンから指導されたポイントをひとつひとつ、確実に押さえたものだった。

 

『かっこいい運転には、無駄はありません。

無駄な加速、無駄な進路変更。

車を自在に操っているぜ、とマウントをとる運転は、はっきり言ってダサいです。

クールな運転とは、きびきびとした運転を言います。

周囲の流れにのること。

周囲に意志表示をして、事故を誘わないこと。

だから、30メートル前で方向指示器を出すんですよ』

 

(はいはい、分かってますって)

 

ハンドルを握るユノは、四十数時間で無数に受けた注意をお守りに、意識は今現在に集中していた。

 

(今のところ、ほぼ完璧だ

落ち着け~、大丈夫だ)

 

『ほらほら、目の動きだけで安全確認したらダメですよ。

それじゃあ、確認しているフリに過ぎません。

視野も狭くなります。

頭も動かして、首もひねって...』

 

(分かってますって、チャンミンせんせ)

 

 

ユノさんへ

 

ユノさんは絶対に合格します。

僕は出来のよい指導員じゃなかったと思います。

僕の教え方は淡々としていて、話し方も冷たくに聞こえていたでしょう。

でも、教えるべきところは全て教えたつもりです。

ユノさんの財布を空っぽにさせてしまったけれど、確実にマスターするまで補習させてしまって申し訳ないです。

とことん練習をしたのですから、今日の検定は100%合格します。

車は凶器です。

ハンドルを握ること=沢山の人の命を預かることです。

事故も違反も起こさないドライバーになって欲しかった。

だから、教習中はよそ見をしないよう、教習にだけ集中してもらいたかったのです。

もちろん、学校の規則もありましたけどね。

ひとつ、ユノさんに自信を与える話をしましょう。

僕が初めて運転免許を取ったとき、落ちこぼれでした。

補習も沢山受けましたし、仮免も卒検も落ちました。

そんな運転が下手くそだった僕が、指導員になれたのです。

なぜ合格できたのだと思いますか?

練習を沢山したこともあります。

それ以上に、ひとつひとつの操作を丁寧に、安全確認を省略せずに運転することを心がけたからです。

そんな運転をユノさんに教えてきました。

だから、ユノさんは合格します。

深呼吸して肩の力を抜いて、運転してください。

あの時、連絡先の交換をしていればよかったと、つくづく思います。

今さらですが、交換させてください。

お願いします。

ユノさんには謝らないといけないことや、伝えたいことが沢山あります。

僕には、ユノさんへ特別な想いを抱いている自覚がありました。

教習車の外で、心おきなくお話がしたいとずっと思っていました。

気付かないフリをしていてすみませんでした。

ユノさんは「卒業してから」と言っていましたが、その前から答えは出ていました。

次に会った時、そのお返事をさせてください。

 

チャンミン

 

 

手紙というアナログなものを、久しぶりに書いたチャンミンだった。

 

現地にいられないし、電話もかけられない。

 

それならば手紙しかない。

 

検定前に読んでもらい、元気を与えられる手紙を書こう...とても素敵なアイデアだ。

 

レターセット、というものを持ち合わせていなかったため、例のコンビニエンスストアまで走って調達した。

 

書き損じで何枚もの便箋を無駄にした。

 

書き上げた手紙を読み返しているうち、チャンミンはくすくす笑いが止まらなくなった。

 

「なんだよこれ...ラブレターじゃん」

 

応援メッセージが愛の告白のようなものに様変わりしていた。

 

今朝、講習会場に向かう途中、出勤前のKの自宅に寄り、味もそっけもない白い封筒を託した。

 

「これを、ユノに渡して欲しい」

 

Kは、手紙を渡すに至ったいきさつを知りたげな顔をしていたが、その場では何も追求しなかった。

 

「分かった。

確実に渡すから、安心しろ」

 

「本番前までに、必ず読むように、って念をおしてくれ」

 

「仰せの通りに。

お前こそ落ちるなよ」

 

チャンミンは、「受かるに決まってるさ」と笑って答え、Kの家を後にした。

 

 

窓の外の駐車場に次々と、車が乗り入れる砂利音がしてきた。

 

受検者たちが到着したのだ。

 

時刻は正午になっており、チャンミンは知らぬうちに眠り込んでいたようだった。

 

「しまった...」

 

ユノの検定は終了している。

 

(ユノは手紙を読んでくれただろうか?

くしゃくしゃに丸めて捨ててしまったかもしれない)

 

昼食に用意してきたサンドイッチが喉を通らなかった。

 

間もなく自動車学校の昼休憩時間で、Kから連絡が入ることになっている。

 

(どうか、合格していますように!)

 

チャンミンこそ今後の指導員人生がかかっている大切な時だった。

 

ところが、自分のことはそっちのけでユノの心配をして、胃袋をキリキリとさせていたのだった。

 

 

(つづく)

 

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