(2)麗しの下宿人

 

 

12歳の初夏、僕は精通を経験した。

 

早朝、不快感で目覚めた。

 

身動きすると下半身に冷たいものが肌にはりつき、下着に触れてみると濡れていた。

 

学校の授業で習っていたから、「ああ、これがそうなのか」と。

 

大人に近づいた嬉しさよりも、真っ先に僕を悩ませたのは「汚した下着をどうしようか?」だった。

 

母に知られたくなかった。

 

トイレと洗面所は母の寝室の真隣にあった。

 

築50年を超える我が家の板床は忍び足でもきしみ、彼女を起こさないよう寝室の前を横切るのは骨が折れた。

 

外は白々と明るくなり始めたばかり。

 

北向きの洗面所は、小さな窓から差し込む白い朝日で、ぼうっと薄明るくなっていた。

 

洗面所のヒマワリ柄のビニール床に、僕の生っ白い足の甲。

 

そのコントラストが、妙に生なましく感じた。

 

僕はパジャマのズボンごと下着を脱いだ。

 

汚れたそれを洗おうと、蛇口をひねりかけてその手を止めた。

 

陶器製のシンクを叩く水の音で、母が目を覚ますかもしれないと思ったのだ。

 

洗っているものが何なのかを知られたくない!

 

今となれば、下着を汚してしまいパニックになっていた自分を可愛らしいと思える。

 

が、女子に目もくれなかった初心な12歳男子にとって、自分の意志を無視したこの生理現象は恐怖だった。

 

実際は見た覚えのないのに、性的な夢を見たのではと、母には思われたくなかった。

 

僕は汚れた下着をパジャマの下に隠し、階段を挟んで反対側...下宿人の居住エリア...へと移動した。

 

下宿人用の風呂場で下着を洗おうと思ったのだ。

 

ユノは、まだ寝ているだろう時間だ。

 

蛇口の水の下で汚れを流した後、備え付けのボディソープを塗りつけた。

 

ステンレス製のシンクを叩きつける水音が、意外に大きくてヒヤヒヤした。

 

「何してるんだ?」

 

「!!」

 

背後からの声に、心臓が止まるかと思った。

 

犯罪の実行中を目撃されたかのような気分だった。

 

首がもげるんじゃないかと思う程、勢いよく振り向いたら、ユノが立っていた。

 

「...ユノ...ちゃん?」

 

なぜだか涙がにじんできて、それは説明のできない涙で、でもユノなら分かってくれそうで、この涙のおかげでホッとしていた。

 

「チャミ...」

 

ユノは僕が何にパニクっているのか、すぐに理解したようだった。

 

ユノは靴下を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げると、風呂場の洗い場へ入っていった。

 

そこでしゃがみ込みと、「俺に貸してみ」手をひらひらさせた。

 

「......」

 

羞恥心いっぱいの僕は、下着を浸した洗面器をユノの方へと滑らした。

 

「ぬるま湯の方がよく落ちる。

ボディソープじゃ駄目だ。

そこの洗濯機のとこから洗剤を持ってきて」

 

 

「うん」

 

洗面所に住人共用の洗濯機が設置してある。

 

15年ものの二層式洗濯機だ。

(脱水中はガタガタとうるさく、僕の部屋まで聞こえてくる)

 

僕はユノの指示に従い、手際よく洗い物をする彼の手元を見ていた。

 

「慣れてるね」

 

「しょっちゅう洗ってたから」

 

「へぇ...そうなんだぁ。

子供の頃?」

 

「たまにね。

汚さないでいるのも難しいものなんだ」

 

僕がこれまで知らないでいただけで、世の大人の男たちは、家族の目を盗んで精液で汚れた衣類を洗っているものなんだ。

 

ユノがどういう状況を指して言っていたのか、僕には知識がなかったから、素直に「へぇ」と驚いていた。

 

「チャミって今、いくつ?

小5だよな?」

 

「6年生だよ。

12歳」

 

僕はむくれて答えた。

 

「ってことは、俺んときより2歳早いな。

早熟だな」

 

「ソージュクって?」

 

「辞書で調べとけ。

俺は14歳ん時」

 

「どうした?」

 

「そのまま洗濯機に入れたんだ。

家族に見つかってさ、『手洗いしてから洗濯機に入れなさい』って怒られた」

 

「恥ずかしくなかったの?」

 

「寝てるうちに出ちゃうのは11歳ん時だったけど...9歳ん頃からいじってたから、珍しくもなかった」

 

僕はワンテンポ遅れて『いじる』の意味が分かった。

 

そういえば、同級生たちがそんなような話をしては、ゲラゲラ下品に笑っていたっけ、と。

 

彼らを遠目で見ていて、ああはなりたくないなぁ、と思っていた。

 

「チャミはいじったりしてないのか?」

 

「...う~ん...そういうことは未だ...」

 

ユノはもじもじする僕の背中をどん、と叩いた。

 

「俺が教えてやるよ...なんて言えないけど、相談にはのるよ」

 

「え...それって相談するものなの?」と訝し気な僕に、ユノは大笑いした。

 

その笑い声は、がらんとした風呂場でよく響いた。

 

「パンツは俺ん部屋で干しな」

 

「うん」

 

洗面器に溜めた水でよく濯ぎ、雑巾絞りの要領で水気をしぼった。

 

「貸してみ、もっと固く絞らないと」と、僕から下着を取り上げ、ぎゅっぎゅっと絞り直した。

 

ユノの大きな手の中で、僕の下着はころんと小さくなった。

 

「尻丸出しじゃん。

風邪ひくぞ」

 

「あ...ホントだ」

 

ぐちょぐちょに濡れたものを身に付けたくなくて洗面所で脱ぎ、その格好のままここまで走ってきたのだった。

 

「新しいパンツ、持ってくるの忘れた...」

 

「ズボンは直に穿くしかないなぁ」

 

「ズボンも、あっちに脱ぎっぱなし...」

 

下着ごと脱いだパジャマのパンツは洗面所にある。

 

「ちんちんぶらぶらのままじゃ、お母さんに見られた時困るよな。

おし、Tシャツ貸してやるから待ってろ」

 

ユノは階段を駆け上がり、部屋からTシャツを持って戻ってくると、僕にそれを着せてくれた。

 

ユノはとても背が高いため、彼のTシャツを僕が着るとワンピースのようになった。

 

僕をパニックに陥れていた下着の件が解決し、余裕を取り戻した時、ユノの恰好に目がいった。

 

「...あれ?

ユノちゃん、これからどっか行くの?」

 

下宿屋にいる時のユノは、Tシャツにハーフパンツとか、膝の抜けたスウェットパンツとか...身体の線を拾わないだらっとした恰好をしている。

 

その朝のユノは、同じTシャツ姿でも襟首は伸びていないし、細身のズボンを穿いていたから、これから出かけるのかなぁ、と思ったのだ。

 

それから、香水をつけているみたいだ。

 

ユノが身体を動かすと、いつもはしない香りがふわっと僕の鼻をくすぐった。

 

「あ~、それは」

 

ユノは一瞬の間をおいてから、「そう、これから出かけんの」と答えた。

 

「今日の授業は早いんだね」

 

「そうなんだよねぇ」

 

ユノの言うことをそのまま信じた僕だけど、帰宅したばかりだった場合もあるわけだ。

 

 

このことを、2度目に下着を汚してしまった朝に知ったのだ。

 

手洗いした下着をユノの部屋で乾かしてもらおうと、彼のドアをノックしたけれど応答はなかった。

 

ぐっすり眠り込んでいるのなら、無理やり起こすのも悪いなと思い、部屋の前から立ち去った。

 

濡れた下着をどこで乾かそうか頭を巡らしながら階段を下りきった時、玄関の戸がからりと開いた。

 

「ユノちゃん?」

 

戸を開けたのはユノで、階段下で立ち尽くす僕にギョッとしたようだった。

 

「早起きだなぁ」

 

僕が手にしているモノに目をやり、僕の早起きに合点がいったようだった。

 

恥ずかしくてそれを背中に隠し、恥ずかしさを誤魔化そうと、ユノの早朝の帰宅を問いただしてみた。

 

「どこかに行ってたの?」

 

「まあね」

 

僕は早朝に帰宅するような用事を思いつけず、「へぇ」と答えただけで、洗濯後の下着の干し場問題に意識を戻した。

 

「オッケ。

貸して」

 

と、ユノは僕のパンツを受け取ると、お手玉みたいにポンポンやりながら2階の部屋へと上がっていってしまった。

 

朝起きて夕方に帰ってきて、夜眠る...僕が知っている生活パターンとはこれしかなく、夜に出掛けて朝帰ってくる生活パターンもあることを知ったのが、この頃だったと思う。

 

つまり、昼間のユノは大学に行っている日もあるが、大抵は下宿でゴロゴロしていて、夜になるとどこかへ出かけているらしいと。

 

じゃあこの前のユノは、帰宅したばかりだったのに、僕が見送ったりするから、出掛けざるをえなかったわけだ。

 

その辺を散歩するなりして時間をつぶしてから、戻ってきたんだろうと思うけど。

 

ユノって何をしている人なんだろう。

 

子供の目に映るユノは、謎多き、心惹かれてしまう大人の男だった。

 

 

(つづく)

 

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