ちりん、と受話器を置くと、チャンミンは脱力して椅子に腰を下ろした。
チャンミンは深いため息をつき、「緊張しました」と心臓のあたりを撫でさすり、「汗でびしょびしょです」と、パタパタとシャツの襟を扇いでいる。
レストランとホテルへ予約の電話をかけるだけのことでも、チャンミンにとっては重大なミッションなのだ。
なぜなら、俺を車で送迎する以外は、チャンミンは屋敷から出ることなく暮らしてきて、いわば温室育ちだ。
下界の者と接することは例え電話越しであっても、ほとんど無いと言ってもいい。
相手方が電話に出た時は、「えーっと、あのー」と用件を切り出せずにいたため、俺はチャンミンの手を握り、「大丈夫だ」の意を込めて何度も頷いてみせた。
チャンミンの視点は花瓶に固定され、受話器をきつく握りしめ、もう片方の指はくるくるコードを巻きつけていた。
チャンミンは人間に慣れていないだけで、接することができないわけではない。
「うまくできましたか?」
傍らに立つ俺を見上げるその顔...俺を心底信じ切っているその目...は、褒めて褒めてとねだっているように、俺の目に映った。
「さすがチャンミン。
すごいよ。
俺だったらしどろもどろになってしまってたよ」
ああ...今の俺は、まるで年下の者を褒めている年長者のようだ、と思った。
これまでの10年間は、俺はチャンミンから褒められる立場だったのに、俺がチャンミンを褒めることになるとは。
時が流れるとは、年を重ねるとはこういうことなのか。
俺の言葉に、チャンミンはそれは嬉しそうに目を細めて笑った。
・
昼過ぎには出発の用意が済んだ。
チャンミンはバッグが必要なところへ出かけた経験がないため、旅行バッグを持っていなかった。
そこで、彼の着替え等は、俺のものと一緒にひとつのバッグに詰めることにした。
よく畳みもせずバッグに放り込む俺を見かねて、チャンミンは「僕がやります」と俺の手からバッグを引き取った。
きっちり畳まれた衣服、洗面具を入れたポーチをベッドの上に整然と並べ、不足はないか指さし確認をしている。
チャンミンはふんふんと鼻歌を歌い、ニコニコと楽しそうだった。
その姿を見られただけで、いいアイデアを思いついた自分を褒めてやりたかった。
「このバッグじゃ小さいと思います。
スーツケースは持っていませんか?」
「持っていないよ。
スーツケース?
何を入れるの?」
俺だって泊りがけの旅行はしたことがないが、ホテルには枕やタオル、ブランケット、歯磨きコップ、ガウンの用意はあることは知っている。
「チャンミ~ン。
大袈裟過ぎるよ」
「...だって」
枕を抱きしめたチャンミンは、両眉も口角も下げている。
咎めの言葉だと受け取ったのか、それとも、無知な自分をからかわれたと思ったのか。
「...ユノは、いつもと違う枕で眠れますか?
タオルも使い慣れたものの方がいいでしょう?
このブランケットは、『これがあると安心する』って、ユノが小さい頃から使っているものでしょう?
パジャマも着慣れたものがいいでしょう。
シャンプーだって石鹸だって...」
理由を挙げてゆくその必死さに、「いいよ、全部持っていこうか」と頷きたくなったくらいだ。
「今回は、さっと一泊してさっと帰るような気軽なものなんだ。
いつか出かける大旅行に備えて、練習代わりだよ」
しょんぼりしているチャンミンの肩を抱いた。
「それから...『いつもと違うこと』を楽しむ夜なんだ。
チャンミンのことをいっぱい知る夜だから、枕は必要ないと思うよ」
俺の匂わせ発言に、チャンミンは赤くなった顔を背けた。
この手の話になると、チャンミンは俺の目を見られなくなり、熟れた果物並みに顔を染める。
俺だって恥ずかしい。
こんなんで、今夜うまくできるのか自信がなくなる程の、恥ずかしさだ。
恥ずかしがっていると悟られたくなくて、代わりにチャンミンを恥ずかしがらせる。
俺って意地悪な男だ。
「からかってごめん。
俺がガサツな男だって知ってるでしょ?
今夜泊まるところは、全部揃ってるって調べてあるんだ。
荷物は少なくて大丈夫だよ。
ね?」
俺はチャンミンの肩を抱き、彼の額に唇を押し当てた。
「俺は心配性なチャンミンが好きだよ」
チャンミンをなだめるには、唇ではなく額や頬、こめかみへの優しいキスが効果的だ。
ついでに頭を撫ぜてやると、くすぐったそうに身をくねらせる。
まるで小さな子供のようだ。
ここでいつも、思考が立ち止まる。
チャンミンが幼くなってきている。
いつも穏やかで本心を押し殺すところがあったのに、感情を表に出すようになった。
俺はある考えにとりつかれそうになっている。
...アンドロイドとしての性能が落ちて...劣化してきている?
そんなはずはない!
すぐさまその考えを否定した。
俺は何を考えているんだ?
チャンミンに“欲”があると知ったばかりじゃないか。
俺の成長に伴い、チャンミンの“欲”も膨らんでいったと、本人が話していたではないか。
そして昨夜、俺の手はチャンミンのそこを...彼が男である証に触れた。
とても、子供のものとは言えない。
チャンミンは幼くなどなっていない。
チャンミンは大人の男へと、成長しているんだ。
甘えん坊なところは、チャンミンに与えられた本来の性質であり、俺が幼い頃には気づけずにいただけの話だ。
俺の中でそう決着がついて、よかったと思った。
「ユノ?」
考え事にふけっていた俺を、チャンミンは不安げな表情で見守っていたらしい。
「ごめん、何でもない。
そろそろ出かけようか?」
・
玄関ホールのコンソールにメモ書き...チャンミンを伴って一泊する旨...を残して、俺たちは出掛けた。
すぐに執事か女中頭Kが見つけるはずだ。
当主の長男が泊りがけで出掛けるとは、今回が初めてのことで、使用人たちは驚いただろう。
父さんや母さんには、俺の居所を尋ねた時にはじめて知らされるだろうから、彼らの反応については気にかける必要はない。
17歳にもなって外泊を許可しない親は過保護としか言いようがなく、父さんが望む息子像から程遠い。
これまで大人しくしていた俺の方が、みっともないくらいだ。
俺が女だったら話は別だが。
喧嘩や酒、羽目を外して街で騒ぎを起こしたり、夜遊びが過ぎて妊娠させたり...父さんの顔に泥を塗るようなことをしでかさない限り、放っておいてくれるはずだ。
油断ならないのは、これは放任主義ではないことだ。
父さんは、俺に無関心なわけではなく、遠く離れた場所から俺を観察し、腹の底でジャッジを繰り返しているのだ。
・
チャンミンが運転する車は、街への道を下っていった。
森の木々で初夏の太陽は遮られ、開けた窓から涼しい風が吹きこんでくる。
その風でもみくちゃになったチャンミンの前髪を笑った。
「楽しみです。
ホント、楽しみです」
チャンミンの噛みしめるように繰り返す「楽しみです」の言葉に、俺は答える。
「楽しみはもう始まってるよ」と。
チャンミンの太ももにそっと、手をのせた。
(つづく)
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