(12)麗しの下宿人

 

昼間の風呂場は白々と、とても明るい。

 

見せたくないもの...タイル目地のカビやひび割れ、鏡の水垢、手入れをしているのに日々蓄積していった汚れ...があからさまだ。

 

昼間の風呂場...現実を見せつけられているのに現実じゃないみたいな...そんな不思議な感覚に襲われる。

 

いつもはからりと乾いている昼間の湯船に、大量の水が満たされつつある。

 

蛇口全開で、冷水はごーごー音をたて水しぶきをあげている。

 

「水着は?」

 

「俺たちしかいないのに、何を隠す必要があるんだ?」

 

「まあ...そうだけど」

 

僕は全てをさらけ出すことに抵抗があって、タオルをかけておちんちんを隠していた。

 

男同士だし、おちんちんを見られることくらいどうってことなかった...これまでは。

 

あの日、ユノと知らない男の人が裸でもみ合っている様子を覗いてしまって以来、ユノの裸をまともに見られない。

 

変わらずユノとお風呂には入っているけれど、それは夜の時間帯で、白熱灯が2つあるだけ。

 

加えて、湯気で辺りは霞んでいる。

 

だから今みたいに、毛穴も静脈がわかるほどに明るい所なんて、なんだかもう...恥ずかしくて恥ずかしくて、タオルで覆った上に、重ねた両手で隠していた。

 

ユノが男の人と裸でもつれ合っていたことと、僕がおちんちんを隠したくなる心理とどう繋がっていたのか、当時の僕には説明ができなかった。

 

僕は学校で一人ぼっちだったから、性に早熟な同級生たちの会話に加わったことはないし、知恵をつけてくれる兄弟もいない。

 

どうすれば赤ちゃんができるのか、その仕組みを知らなかった僕はつくづく初心だ。

 

気の早いユノと僕は衣服を脱ぎ、湯船の縁に腰掛けて溜まっていく水に足を浸していた。

 

無造作にかけられたタオルに隠されたものに、つい視線が及びそうになる。

 

ドキドキした。

 

(僕は変だ...変になった)

 

足先は冷たいのに、うなじはかっかと熱く火照っていた。

 

「裸になっても、あっちぃな」

 

浴室の格子窓のすぐ側に、隣家の塀が迫っている 。

 

こちらを覗き見しようと思えばできるけれど、覗いたとしても、我が下宿屋は男性限定。

 

覗きたい者なんて滅多にいないだろう。

(世の男の人たちは、女の人の裸が好きなのだ)

 

ユノは手の甲で、鼻を塞いでいた。

 

「チャミは確かに臭うけれど、それは『くさい』のとは違う」

 

ユノはその説明をすると言っていたけれど、どうしてその場にお風呂場を選んだのか、僕には理由が分からない。

 

「わっ!!」

 

気付けば、僕は水風呂の中にひっくり返されていた。

 

頭のてっぺんまで水に浸かり、熱かった身体が一気に冷却される。

 

水の中へと突き落とされたのではなく、ユノが僕を抱きかかえて湯船に飛び込んだのだ。

 

唐突な行動過ぎて、溺れてしまうんじゃないかとスリル満点の悪戯だった。

 

「あはははは!」

 

ユノのはじける笑い声が、タイル張りに反響した。

 

「ユノちゃん、酷いよぉ。

溺れるかと思ったじゃんか!」

 

「ごめんごめん。

ミニミニプールみたいだな、ここ」

 

一般家庭の湯船より広いとは言え、小学生が泳ぐには狭い。

(息継ぎの練習にはちょうどよいサイズだ)

 

僕はユノの腕の中から逃れ、水面に顔を浸けてバタ足をし、ユノの顔に盛大に水を浴びせかけた。

 

「おい!

チャミ!」

 

「さっきのお返し!」

 

大人げないユノは洗面器に水を汲むと、滝行のように僕の頭の上から降り注いだ。

 

ひとしきり僕らは、水遊びをした。

 

はしゃぎ声は隣家にまで届いてしまっていただろうけど、数々の問題児が住まってきた我が下宿屋。

 

苦情を言ってくる者はおそらくいない。

 

「あ~、面白かった」

 

水面が大きく波打っている。

 

「......」

 

僕らは湯船の縁にうなじを持たせかけ、水面の揺らめきが反射したタイルの天井を眺めていた。

 

「なあ、チャミ」

 

「なあに?」

 

「さっきの話。

チャミが気にしてたこと」

 

「...あ...!」

 

あまりに楽しくて、冷たい水が心地よくて、忘れかけていたこと。

 

「チャミの匂いのことだ」

 

「......匂うんでしょ?

僕、臭いんでしょ?

学校でも、『くさい』って言われてるんだ。

僕、お風呂にちゃんと入ってるし、頭も洗ってるのに...」

 

成績は中くらい、視線は常に下、目立たないように、貝のようになっているのに、匂いばかりは隠せない。

 

ユノは僕が学校でどのように過ごしているのかを、とても気にかけている。

 

「ユノちゃんも、僕のことを『くさい』って思ってるんだ!」

 

僕は引き寄せた膝に顎を乗せた。

 

たっぷり水浴びしたおかげで冷えた肌に、吐息が温かい。

 

「違うよ。

チャミの場合は、『くさい』のとは違うんだ。

『匂い』っていう言い方がいけなかったね。

『香り』だ」

 

「言い方を変えたって、臭うのは変わらないじゃんか」

 

「全然違うよ。

チャミからは『香り』がするんだ。

我慢できなくてつい、顔をそむけてしまって...嫌な思いをさせてしまったな。

ごめん」

 

「あれ...?」

 

今さら気付いたのだけど、ユノは鼻を覆っていなかった。

 

さっきまで顔を背けていたくせに、今のユノは鼻先と僕の頬がかするほどに接近している。

 

驚いた僕はお尻をずらして彼から距離をとろうとした。

 

「くさいんでしょ?

離れてよ」

 

「離れない」

 

僕の身体はユノの手で引き戻された。

 

「くさくないの?」

 

「ああ」

 

ユノの前髪のひとすじから、水滴がぽちょん、と滴り落ちた。

 

「どうして?

濡れたから?」

 

「それもあるけど...」

 

ユノは僕のうなじをそっと、3本の指でつかんだ。

 

くすぐったくて首をすくめた。

 

ユノの手は大きくて、僕の細っこい首など簡単にひねりつぶせそうだった。

 

「チャミのうなじの体温が下がったこともある。

水で洗い流されたこともある。

さっきまで、チャミのここから、匂いが...香りが漂っていたんだ」

 

「首の後ろから匂いが出てるの!?

病気!?」

 

「病気とは違う。

今から俺が話すことは、信じられないことだと思う。

あくまでも俺が、『そうじゃないかな?』って推測した話だ」

 

僕の身体に何かしら異変が起きているらしい。

 

病気じゃないのなら『呪い』とか『魔法』とか、変な草の汁が付いたとか、変な虫に刺されたとか...ありとあらゆる可能性が湧いてきて、頭の中でひしめいた。

 

ドクドクと鼓動が早い。

 

 

 

「俺が思うに...チャミは『オメガ』だと思う」

 

「オメガ?」

 

それは僕が初めて耳にするワードだった。

 

左利き、珍しい血液型、有名人の子孫、外国の血が流れている、アレルギー体質...そんな類の話だと思った。

 

「オメガって、何?

珍しいの?」

 

「ああ。

珍しいよ、とても」

 

「オメガって...何?

病気では無いんだよね?」

 

ユノは首を振った。

 

「じゃあ...宇宙人、とか?」

 

ちょっとふざけてみた。

 

「チャミが宇宙人なら、チャミのお母さんも宇宙人になっちまうぞ?

君たちは誰がどう見ても親子だよ。

そっくりだ」

 

「じゃあ、何なの?

オメガになったから、首が臭くなったの?

今まで普通だったのに、急にオメガになっちゃったってこと?」

 

僕は特異体質の持ち主なんだと、一瞬だけ得意げな気持ちになってしまったくらいだ。

 

ユノの表情はちっとも楽しそうなものじゃなく、どちらかというと苦しそうだった。

 

怖くなってきた僕は、「ユノちゃんの話、聞きたくない」と言って耳を塞いだ。

 

「知らなかったでは済まない話なんだ」

 

「オメガだと何が問題なの?

変なの?

オメガって何だよ?」

 

今後の僕の人生を左右する話をする場に、昼間の風呂場は相応しくない。

 

聞いた直後は、ユノからの宣告の重さが理解できなかった。

 

 

...のちにじわじわと、気を抜けば不幸に転落してしまう身の上を思い知らされるごとに、「知らなければよかった」と、ユノを責めた。

 

 

(つづく)

 

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