「あ~あ。
今夜、話すつもりだったのに」
勢いが削がれてがっくりきた僕は、ごろんと横になった。
「ちゃんと掃除してるじゃん」とぼんやり思いながら、飴色に変色した畳の目地を見ていた。
今夜は各々で入浴を済ませていた。
僕は甚平を(母が縫ってくれた)、ユノは赤色のTシャツと、膝までたくし上げたスウェットパンツ姿だった。
ユノは赤が良く似合う。
ユノは再び、漫画本の世界に戻ってしまっていた。
窓際の壁にもたれ、長い足を投げ出したいつもの姿勢だ。
僕はユノから距離をとった、部屋の真ん中辺りに寝転がっていた。
「お母さんに話して、それから専門のお医者さんに診てもらって、薬を飲めばすべて解決...」と、つぶやいていたところ。
「そうか!」
僕の視界の隅でだらけた姿勢でいたユノが、しゃんと飛び起きた。
「ユノちゃん?」
「俺はボケボケのじじぃだ!」と、頭をかきむしると、「チャミ、悪かった」と謝ってきた。
謝られる理由が全く思い当たらず、何のことやら首を傾げていると、
「『お母さんに打ち明けろ』って、強引だっただろ?
絶対に言わないと駄目だって」
「うん。
だから、今夜そうするつもりだったんじゃん」
「俺はチャミに無理なお願いをしていたんだ。
チャミひとりに言わせること自体が、無謀だったんだ」
「だからユノちゃんも一緒に居てくれることになったんでしょ?」
「結果的にはね。
本来なら、『俺が』チャミをお母さんのところに連れていかなきゃいけなかったんだ」
ユノがこだわっている点が何なのか、僕にはぴんとこない。
「変だろ?」
「何が?」
「チャミが『オメガ』を知ってることが...変なんだよ」
「変かな?」
「よく考えてみろ」と、ユノは宿題を教える時みたいに、ぐいっと身を乗り出した。
「チャミは『オメガ』の存在を知らなかった。
『オメガ』の存在を知らない者が多いのに、12歳のチャミがどこで『オメガ』を知ったのか?」
人差し指をピンと立ててみせるのも、いつものユノのジェスチャーだ。
「ユノちゃんが、教えてくれたから」
「そうだよ。
『チャミはオメガなのでは?』と気付いたの俺だ。
無責任にも俺は、お母さんに打ち明けに行けと、チャミ一人で行かせようとしていたんだ。
俺自身『オメガ』のことを知っているからって、チャミのお母さんが知っている体でいてしまったよ」
「そういうことね...」
僕はユノの言いたい事が、だいたい理解できた。
「やっぱり、お母さんは『オメガ』のこと知らないのかな?」
これまで、母の口から『オメガ』のオの字も出たことはない。
「存在は知っていても、まさか身内にいるとは思わないよ、普通」
ユノは「...でも、どうだろう...」とつぶやくと、空を睨んだ。
僕はその続きを待っていたけれど、ユノはその言葉を飲み込んでしまったようだった。
「チャミ単独でお母さんに突撃させることは無茶な話だった、ってこと。
早く伝えた方がいいと急かしたり、
気付いたのは俺だ。
チャミに判断を任せるなんて...俺が責任もたないと。
ごめんな」
「別に、謝らなくてもいいよ」
「チャミのことでびっくりしちゃって、テンパってたみたいだ」
「僕のニオイのせい?
苦しくなっちゃうんでしょ?」
「ごめんね」と謝ろうとした時、ユノは僕に向けてタオルを投げた。
「ほらな?
どうしても、この流れになっちゃうなぁ。
まだ1日目なのに、チャミは俺に気を遣ってばっかりだ。
チャミは『オメガ』を知らないのに、俺に謝ってばっかりだ」
「う...ん」
僕は差し出されたユノの手に引っ張り起こされた。
「これ以上チャミに謝らせたくない。
だからさ、いろんなことはっきりさせような?」
ユノは僕の頭をひと撫ぜると、窓際まで戻ってしまった。
「チャミはもう寝なくていいのか?
...って、まだ8時かぁ。
いや、小学生は寝る時間かぁ」
僕の視線の延長線...布団の脇に置かれた蚊遣りは、白い煙をらせん状にくゆらせていた。
「ユノちゃん」
「んー?」
「今夜はここに泊まっていってもいい?」
もしかしたら...の期待を込めて、子供っぽくおねだりしてみせた。
「...な~んて、嘘。
無理だよね」
と、ユノが返事に迷うより先に、冗談っぽく仕立て上げた。
「ごめんな」
母に打ち明けるのは、5日後の夜へと延期することにした。
さすがに夜勤明けの母を捕まえるわけにはいかない。
どうしてここまで日にちが延びたかというと、僕の予定は常に真っ白だけど、母の休日と ユノの夜の予定がない日をすりあわせると、最短でその日になってしまったのだ。
そして、話があるから予定を空けておくよう、前もって母に知らせないことにした。
母を身構えてさせてしまうし、「今すぐ言いなさい」と約束を取り付ける前に白状させられてしまうからだ。
母が仕事や買い物以外で外出することはほとんどないから、当日朝に頼んでおけば大丈夫だ。
「ユノちゃん」
「ん~?」
「明日の朝ご飯、何がいい?」
「いつものがいいな」
「夏はトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」
「そう」
「秋もトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」
「そうそう。
冬もトーストとマーガリンとゆで卵。
春も...」
「ユノちゃん!」
歌混じりにからかうユノを一喝した。
「ユノちゃんってホント、イヤミなヤツだなぁ。
分かったよ、卵焼きの練習しておくよ」
「はははっ。
よろしく~」
ユノの部屋を出ると、僕の甚平から煙でいぶされた匂いがぷんぷんした。
・
母に話をすると決めた日の前日。
ユノは朝から不在だった。
前夜から帰宅していないのか、早朝出掛けていったのか分からない。
母は祖父のいる老人ホームへ出かけていたから、下宿屋は僕ひとりだ。
僕は台所のダイニングテーブルに宿題を広げていた。
「あっちぃなぁ...」
直射日光が差し込まない北向きの部屋とはいえ、この日の暑さは身体に堪えた。
熱をたたえた空気は身動ぎしない、風鈴の音が聞こえてこない。
汗が滴り落ちて、読書感想文用の原稿用紙にシミを作ってしまう程の暑さ。
僕のうっかりミスのせいで、保冷剤で涼をとることができなかった。
冷凍庫に入れ忘れて、ぬるくなってしまったそれを洗面所で見つけたばかりなのだ。
頭がおかしくなりそうな暑さだ。
夕方までかけたって、原稿用紙の半分も埋められないだろう。
ガンガンにエアコンのきいた図書館へ行こうと、思いついた。
ユノの言う通り、僕は滅多に存在しない『オメガ』なのかもしれないけれど、それと同じくらいの希少さで、『オメガ』の香りを嗅ぎつけられる者も世の中にはいるわけだ。
そういえば、パンツを汚して以来、図書館へ行ったことはない。
保冷材はないけれど、ユノの言いつけ通り首にタオルを巻き、バッグに宿題を詰めると下宿屋を出た。
かんかん照りの日が数日続いていた。
桜の家の辺りの道路で、空気の層が揺れていた。
(ユノちゃんと水風呂入りたいなぁ...)
(つづく)
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