(17)麗しの下宿人

 

「あ~あ。

今夜、話すつもりだったのに」

 

勢いが削がれてがっくりきた僕は、ごろんと横になった。

 

「ちゃんと掃除してるじゃん」とぼんやり思いながら、飴色に変色した畳の目地を見ていた。

 

今夜は各々で入浴を済ませていた。

 

僕は甚平を(母が縫ってくれた)、ユノは赤色のTシャツと、膝までたくし上げたスウェットパンツ姿だった。

 

ユノは赤が良く似合う。

 

ユノは再び、漫画本の世界に戻ってしまっていた。

 

窓際の壁にもたれ、長い足を投げ出したいつもの姿勢だ。

 

僕はユノから距離をとった、部屋の真ん中辺りに寝転がっていた。

 

「お母さんに話して、それから専門のお医者さんに診てもらって、薬を飲めばすべて解決...」と、つぶやいていたところ。

 

「そうか!」

 

僕の視界の隅でだらけた姿勢でいたユノが、しゃんと飛び起きた。

 

「ユノちゃん?」

 

「俺はボケボケのじじぃだ!」と、頭をかきむしると、「チャミ、悪かった」と謝ってきた。

 

謝られる理由が全く思い当たらず、何のことやら首を傾げていると、

「『お母さんに打ち明けろ』って、強引だっただろ?

絶対に言わないと駄目だって」

 

「うん。

だから、今夜そうするつもりだったんじゃん」

 

「俺はチャミに無理なお願いをしていたんだ。

チャミひとりに言わせること自体が、無謀だったんだ」

 

「だからユノちゃんも一緒に居てくれることになったんでしょ?」

 

「結果的にはね。

本来なら、『俺が』チャミをお母さんのところに連れていかなきゃいけなかったんだ」

 

ユノがこだわっている点が何なのか、僕にはぴんとこない。

 

「変だろ?」

 

「何が?」

 

「チャミが『オメガ』を知ってることが...変なんだよ」

 

「変かな?」

 

「よく考えてみろ」と、ユノは宿題を教える時みたいに、ぐいっと身を乗り出した。

 

 

「チャミは『オメガ』の存在を知らなかった。

 

『オメガ』の存在を知らない者が多いのに、12歳のチャミがどこで『オメガ』を知ったのか?」

 

人差し指をピンと立ててみせるのも、いつものユノのジェスチャーだ。

 

「ユノちゃんが、教えてくれたから」

 

「そうだよ。

『チャミはオメガなのでは?』と気付いたの俺だ。

無責任にも俺は、お母さんに打ち明けに行けと、チャミ一人で行かせようとしていたんだ。

俺自身『オメガ』のことを知っているからって、チャミのお母さんが知っている体でいてしまったよ」

 

「そういうことね...」

 

僕はユノの言いたい事が、だいたい理解できた。

 

「やっぱり、お母さんは『オメガ』のこと知らないのかな?」

 

これまで、母の口から『オメガ』のオの字も出たことはない。

 

「存在は知っていても、まさか身内にいるとは思わないよ、普通」

 

ユノは「...でも、どうだろう...」とつぶやくと、空を睨んだ。

 

僕はその続きを待っていたけれど、ユノはその言葉を飲み込んでしまったようだった。

 

「チャミ単独でお母さんに突撃させることは無茶な話だった、ってこと。

早く伝えた方がいいと急かしたり、

気付いたのは俺だ。

チャミに判断を任せるなんて...俺が責任もたないと。

ごめんな」

 

「別に、謝らなくてもいいよ」

 

「チャミのことでびっくりしちゃって、テンパってたみたいだ」

 

「僕のニオイのせい?

苦しくなっちゃうんでしょ?」

 

「ごめんね」と謝ろうとした時、ユノは僕に向けてタオルを投げた。

 

「ほらな?

どうしても、この流れになっちゃうなぁ。

まだ1日目なのに、チャミは俺に気を遣ってばっかりだ。

チャミは『オメガ』を知らないのに、俺に謝ってばっかりだ」

 

「う...ん」

 

僕は差し出されたユノの手に引っ張り起こされた。

 

「これ以上チャミに謝らせたくない。

だからさ、いろんなことはっきりさせような?」

 

ユノは僕の頭をひと撫ぜると、窓際まで戻ってしまった。

 

「チャミはもう寝なくていいのか?

...って、まだ8時かぁ。

いや、小学生は寝る時間かぁ」

 

僕の視線の延長線...布団の脇に置かれた蚊遣りは、白い煙をらせん状にくゆらせていた。

 

「ユノちゃん」

 

「んー?」

 

「今夜はここに泊まっていってもいい?」

 

もしかしたら...の期待を込めて、子供っぽくおねだりしてみせた。

 

「...な~んて、嘘。

無理だよね」

と、ユノが返事に迷うより先に、冗談っぽく仕立て上げた。

 

「ごめんな」

 

母に打ち明けるのは、5日後の夜へと延期することにした。

 

さすがに夜勤明けの母を捕まえるわけにはいかない。

 

どうしてここまで日にちが延びたかというと、僕の予定は常に真っ白だけど、母の休日と ユノの夜の予定がない日をすりあわせると、最短でその日になってしまったのだ。

 

そして、話があるから予定を空けておくよう、前もって母に知らせないことにした。

 

母を身構えてさせてしまうし、「今すぐ言いなさい」と約束を取り付ける前に白状させられてしまうからだ。

 

母が仕事や買い物以外で外出することはほとんどないから、当日朝に頼んでおけば大丈夫だ。

 

「ユノちゃん」

 

「ん~?」

 

「明日の朝ご飯、何がいい?」

 

「いつものがいいな」

 

「夏はトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」

 

「そう」

 

「秋もトーストとマーガリンとゆで卵、ね?」

 

「そうそう。

冬もトーストとマーガリンとゆで卵。

春も...」

 

「ユノちゃん!」

 

歌混じりにからかうユノを一喝した。

 

「ユノちゃんってホント、イヤミなヤツだなぁ。

分かったよ、卵焼きの練習しておくよ」

 

「はははっ。

よろしく~」

 

ユノの部屋を出ると、僕の甚平から煙でいぶされた匂いがぷんぷんした。

 

 

母に話をすると決めた日の前日。

 

ユノは朝から不在だった。

 

前夜から帰宅していないのか、早朝出掛けていったのか分からない。

 

母は祖父のいる老人ホームへ出かけていたから、下宿屋は僕ひとりだ。

 

僕は台所のダイニングテーブルに宿題を広げていた。

 

「あっちぃなぁ...」

 

直射日光が差し込まない北向きの部屋とはいえ、この日の暑さは身体に堪えた。

 

熱をたたえた空気は身動ぎしない、風鈴の音が聞こえてこない。

 

汗が滴り落ちて、読書感想文用の原稿用紙にシミを作ってしまう程の暑さ。

 

僕のうっかりミスのせいで、保冷剤で涼をとることができなかった。

 

冷凍庫に入れ忘れて、ぬるくなってしまったそれを洗面所で見つけたばかりなのだ。

 

頭がおかしくなりそうな暑さだ。

 

夕方までかけたって、原稿用紙の半分も埋められないだろう。

 

ガンガンにエアコンのきいた図書館へ行こうと、思いついた。

 

ユノの言う通り、僕は滅多に存在しない『オメガ』なのかもしれないけれど、それと同じくらいの希少さで、『オメガ』の香りを嗅ぎつけられる者も世の中にはいるわけだ。

 

そういえば、パンツを汚して以来、図書館へ行ったことはない。

 

保冷材はないけれど、ユノの言いつけ通り首にタオルを巻き、バッグに宿題を詰めると下宿屋を出た。

 

かんかん照りの日が数日続いていた。

 

桜の家の辺りの道路で、空気の層が揺れていた。

 

(ユノちゃんと水風呂入りたいなぁ...)

 

(つづく)

 

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