「あなたがチャンミンさんですか」
「へ?」
アオ君...とかいう少年が発したこの言葉に、ビックリ仰天だった。
「僕のことを知っているんですか!?」
「今さっき、ユノさんがあなたを『チャンミン』って呼んでいましたよ」
「あ...そうだったね」
アオ君のごもっともな指摘に、僕は赤面するしかない。
(状況把握に躍起になっている僕は、新たなデータ...夫がアオ君から『ユノさん』と呼ばれている...を入手した)
アオ君は人見知りしないキャラクターなのだろう。
僕の乱入に驚いていたのもわずかな間だったらしく、今じゃニコニコ顔になっていた。
その悪びれた感じが全くないところも、浮気説を否定していた。
次に僕がやるべきことは、抱えた疑問をひとつ残らず解消してゆくことだ。
僕は夫に「どういうこと?」と目で問いただすと、彼は「今から説明するから、落ち着けよ」と口をパクパクさせた
浮気の可能性が消えたとしても、『僕に内緒』で『若い男』と会っていた事実にむしゃくしゃしていた。
夫は僕のご機嫌取りのエキスパートであるはずなのに、動揺から抜け出せないせいで、何から説明したらよいか言葉を探しているようだった(夫は嘘も下手だが、言い訳も下手だったことを思い出した)
この場で最も落ち着いていたのが、高校生のアオ君だった。
目と表情で会話をする僕らに、アオ君は「こんな所じゃなんですから」と上がり框から身をひいた。
「部屋に上がってください」
「でも...」
「自己紹介も途中ですから...ね」
夫を尾行していた間、僕の中で立てていたプランはこうだ...現場を押さえ泣きわめき、夫にビンタをし、浮気相手に罵詈雑言を吐いたのち、自宅まで連れ帰る。
...つまり、夫が会っていた件の人物の自宅に上がる予定など、全くなかったのだ。
ついさっき夫は浮気などしていなかったことが判明した(彼僕の直感が保証する)
でも、件の人物がアオ君という男子高校生だと分かった今、夫が彼の存在を内緒にしていた理由が知りたい。
「上がらせてもらおうか?」と、夫は僕の背を押した。
僕はとにかく不機嫌極まりない顔をしているけれど、真相が分かったおかげで張りつめた気持ちがほどけたのは確かだ。
ほっとしたことで、寒空の下夫を尾行してきた身体が、とても冷え切っていたことにようやく気付けた(興奮と緊張は寒暖の差を分からなくさせるらしい)
アオ君の背後に見える電気ストーブで暖を取りながら、「温かいものを飲みたいなぁ」なんて思ってみたりして。
「それじゃあ...」
僕と夫は靴を脱ぎ、アオ君に次いで室内へ上がった。
・
極端に物が少なく、がらんと寒々しい部屋だった。
アオ君は「引っ越したばかりなんです」と言った。
「引っ越したばかり?」
「はい。
学校の寮に居たんですが人間関係でいろいろあって...寮を出ることにしたんです」
「そうだったんだ」
「引っ越し作業やいろんなことを、ユノさんに手伝ってもらっていたんです」
「へぇ...」
アオ君は夫から買い物袋を受け取ると、「立ちっぱなしもなんですから、座ってください」と言って、カーペット敷の床にあぐらをかいた。
僕と夫は上着を脱ぐと、アオ君に倣ってその場に座った。
夫のコートはぞんざいに丸めただけだったため、僕は内心で舌打ちをしながら、彼のコートを裏返した。
「えーっと。
ユノとアオ君はどういったご関係で?」
せっかちな僕は、彼らのどちらかが紹介を始めるのが待てなかったのだ。
「行きつけの店のバイト生だったのかな?」と予想してみた。
夫の交友関係に口を出すような夫にはなりたくないけれど、今の僕は口を出さずにはいられずにいる。
それほど長い間、新たな人間関係を築く機会が夫にはなかった、というわけだ。
だから知り合いに10代の男の子がいると分かった今、僕は興味津々、謎を解きたいワクワクと、隠し事をしていた夫への苛立ちで感情的になっていた。
ユノばっかりズルい!...これが本音だ。
「ユノさんと僕は親戚です」
「!」
すとんと納得できる回答だった。
「そう!
そうなんだよ。
俺の...従兄弟の子どもだ」
何度も頷いてみせる夫が、若干嘘くさく見えた。
「へぇ...。
こんなに大きな子供がいる従兄弟がいるんだ」
「ああ。
チャンミンは会ったことないと思う」
「...なるほど」
すとんと納得できる回答だった。
僕らの結婚は親戚縁者から祝福を得たものではないため、親戚付き合いそのものがほとんどない。
もし、僕らをよく思わない彼らの中に、アオ君の両親が含まれているとしたら...。
こういった複雑な心境を前提にすれば、夫の消極的な態度も納得がいった。
「コーヒー...冷めてしまいましたね」
アオ君は紙カップの蓋をあけ、目を閉じてコーヒーの香りを嗅いだ。
カップを持つ細くて長い指は、すべすべしていた。
・
「おやすみなさい!」
アオ君はドアの外まで出て、帰宅する僕らを見送ってくれた。
アパートメントの門柱の辺りで振り向くと、アオ君は僕らの姿が見えなくなるまで見送るつもりらしく、彼のシルエットが手を振り続けていた(外灯の光量が貧弱で、階段の隅に居る小人を蹴っ飛ばしそうになってしまった)
僕は僕のマフラーを、夫は夫のマフラーをそれぞれ首に巻き、僕ら夫夫は帰路についた。
アオ君のアパートメントが完全に見えなくなった時、ダウンジャケットのポケットに、夫の手が忍び込んできた。
「やだね」と、少しだけ抵抗してみせた後、僕の片手は夫によってポケットから引き出された。
手を繋いでぽくぽくと、コンビニエンスストアの明かりに向かって坂道を下っていった。
「......」
夫の不自然な外出の行き先は判明したけれど、もうひとつ解けていない疑問がある。
「親戚の子なら、どうして僕に内緒にする必要があるんだ?」
アオ君の前では訊ねにくかった質問をしてみたら、夫はこう答えた。
「それは...恥ずかしいから言いにくいなぁ」
「そりゃあ、ますます僕に説明しないとね」
僕は握った指に爪を立てた。
(つづく)
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