診察室に戻ってきた僕らに、医師と母は安堵の表情を見せた。
「どうしたの?」とも「何に驚いたの?」とも、何の質問も振ってこなかった。
医師も母も、僕が何に気付いたのか分かっていたのだ。
医師も母も、『オメガ』だと見抜いたのがユノである時点で、ユノ自身が『特定の人』であると分かったのだろう。
検査の前に、ユノだけが診察に呼ばれていたけれど、その時に医師から確認がとられていたのだろう。
『オメガ』のフェロモンの香りは、『特定の人』にしか嗅ぎ分けることができないからだ。
・
「そういうことです」と医師は言った。
「驚いたでしょう?
今日、順を追って話をしようと思っていたのよ」
『俺は敵じゃない。チャミの味方だ』と力強い言葉を貰ったばかりだったから、僕は抗議の声をあげなかった。
代わりに母を睨んだ。
「ごめんなさいね。
お母さんが教えるよりも、ユノさんから直接伝えてもらった方がいいと思ったの。
ユノさんなら大丈夫って、信じていたから。
チャンミンを可愛がってくれていたから」
「いえ、そんな...」
ユノは照れくさそうにうなじを掻いた。
「ユノさんはチャンミン君とひとつ屋根の下で暮らしているのよね?
お医者さんの立場から言わせてもらうと、チャンミン君の側にユノさんがいること自体、喜ばしいことじゃないの」
医師の言葉に僕は青ざめた。
「えっ。
じゃあ、ユノちゃんは僕んちを出なきゃいけないってこと?」
「本来はね」
「そんなぁ...」
「さっき見せた写真のカップルについての話が途中だったわね。
『オメガ』は『特定の人』たちから身を守る生活をしないといけない、とも話したわね?」
僕は無言で頷いた
(だから、ユノは僕にとって危険な存在ってことだ)
「この妊娠した『オメガ』の隣にいる彼だけど...」と、医師は長身の男性の方を指さした。
「彼は『特定の人』です」
「えっ!」
「彼は隣にいる『オメガ』の彼をとても大切に思っています。
危険な目に遭わないよう護っています。
『オメガ』を襲おうとする者たちを退けています。
彼にとって『オメガ』の彼は宝物なのです」
「...宝物」
斜め後ろに居たユノが椅子ごと僕の隣にくると、僕の手の甲に大きな手を覆いかぶせた。
「えっと...えっと?」
どぎまぎしながらユノを見上げると、彼は片目をつむってみせた。
「さっき言っただろ?
俺はチャミの味方だって」
ユノは握る手に力を込めた。
「言ってた」
「『オメガ』を見つける術に長けてる『特定の人』は、大抵が体格も体力も勝っているの」
医師の言う通り、ユノは長身で動きも俊敏だ。
例えば、階段から転落しかけた僕を助けてくれた日のこと。
僕を見据えた時なんて、眼力だけで圧倒的な力を見せつけた。
「『オメガ』の人生は面倒なことが多いけれど、強力な味方が側にいてくれたら、これほど心強いことはないわね。
『特定の人』は危険な存在だけれど、強力な味方にもなってくれる」
「ユノちゃんはホントは危険人物だけど、味方にすると強いってこと?」
「おい...危険人物って言い方...」
ユノは肘で僕を小突くと、「ったいよ、ユノちゃん!」と僕に小突かれ返された。
「チャンミン君はとてもラッキーな『オメガ』ね。
チャンミン君にとって、ユノさんが特別な人になってくれるといいわね」
医師はにっこり笑いながら、僕、母、ユノとを順番に見た。
ユノは『オメガ』を襲いたくなってしまう存在なのに、医師や母は全然、心配している気配がないことが嬉しかった。
「なってくれるかな?」僕はユノではなく医師に向かって訊ねたら、「一緒にいるうちに分かるわよ」と意味ありげな笑みを見せて彼女は答えた。
「よかった」
僕は胸を撫でおろした。
「ユノは僕の側に居てよい」と、専門家と保護者のお墨付きだ。
「ずっと『特定の人』だなんて曖昧な言い方をしていたわね。
彼らにも『オメガ』と同じように、専門的な名称があります」
重苦しかった気持ちが一転晴れたばかりなのに、このお医者さんは僕を驚かせることを口にするんだろうなぁと、憂鬱な気分に戻ってしまった。
今度は何を聞かされるんだろう?
鼓動が早くなった。
「その『特定の人』のことを、正式名称では『アルファ』といいます」
「アルファ...?」
初めてきく単語だった。
「この世には、チャンミン君のような『オメガ』とユノさんのような『アルファ』、それから普通の人たち『ベータ』の3つの属性に分けられるの」
「ベータ...」
ここで新しい言葉がもうひとつ登場した。
「世の中の98%以上の人たちが『ぺータ』です。
自分の属性が何なのか意識する必要なく、普通に生活ができる人たちです」
(『オメガ』が0.5%。
『ベータ』が98%。
とすると、『アルファ』が1.5%。
100人中1.5人以上が『アルファ』ということか)
と僕は計算してみた。
この病院内に、『アルファ』も『オメガ』も居てもおかしくない確率だ。
いずれにせよ、とても少ない。
「アルファ、ベータ、オメガ。
ギリシャ語です
アルファの意味は『1番目』
ベータは『2番目』」
「......」
新しい知識で、僕の頭はいよいよパンクしそうになった。
「そして、オメガの意味は『最後』」
「ええぇ...」
つまるところ、「弱い」という意味なのかと、悲しくなってきた。
「劣っている、という意味じゃないわよ?」
表情から僕の考えを読んだ医師は、即座に否定した。
「『オメガ』と呼んでいるのはすべて、『アルファ』を基準にした考えによるものなの。
要は力関係です」
男と女、3つ目に『オメガ』
『アルファ』と『ベータ』、3つ目に『オメガ』
性別や人種や国籍のほかにも、人間を区別する基準があることに僕は驚いた。
「文字の意味通り、『アルファ』は1番優れている属性です。
特に外見と腕力がね。
チャンミン君、カリスマ、という言葉は知ってる?」
「なんとなく」
「『アルファ』はカリスマ的存在」
ユノはハンサムだし、力も強い。
人混みの中で、1本の白百合のようにユノは光っていた。
大袈裟に言うとそれは、黄金色をしたギラギラと眩しい光というよりも、容易に話しかけられない空気をまとった...大袈裟に言うと、神々しい白い光といったところだろうか。
下宿屋の欄干に腰掛けている姿も、掃き溜めに鶴、あまりのミスマッチさに現実の光景じゃないみたい。
そんなユノに、気安く声をかけられる僕。
「アルファ』は『オメガ』の出すフェロモンに激しく反応します。
『ベータ』は反応しません。
『オメガ』の生活が大変な理由は、『アルファ』を恐れなければならないからなのよ」
僕が9歳の時からずっと僕を支えてくれたカッコいいお兄さんが、実は『オメガ』の敵。
和みかけていた診察室の空気が、再び重苦しいものへと変わった。
ユノの様子をうかがうと、奥歯を噛みしめているのかこめかみのあたりがぴくぴくと動いている。
「ユノは...『アルファ』」
「ああ、そうだ。
俺は『アルファ』だ」
重大な病気を告げるかのような、苦し気な低い声だった。
「この件について、先生は俺に確認しましたよね?
それと、先日お母さんからも手紙をもらいました」
母はうなずいた。
(あの時の手紙!)
「俺は今、ここで言わせてもらいます。
先生へはもう一度、はっきりと言わせてもらいます。
お母さんへは、あの手紙の返事をさせてもらいます」
僕から手を離し、居住まいを正したユノに倣って、医師と母も背筋を伸ばした。
ユノが何を言い出すのか想像がつかず、僕は彼の言葉を待つしかなかった。
「チャミは...チャンミン君はまだ子供です。
俺は何があっても、チャミを...チャンミン君を襲ったりはしません」
(襲う...?)
(つづく)
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