(37)麗しの下宿人

 

「むやみに『アルファ』を怖がらなくてもいい。

ユノさんがチャンミン君を護ってくれると言っても、油断はできない。

そこが哀しいところね」

 

ユノ自身自身、『チャンミン君を襲わないように』といった言い方をしていた。

 

「そういう場面が訪れないように、チャンミン君は薬を飲まないといけないのです。

チャンミン君がフェロモンを出している間、ユノさんは我慢しています」

 

「そうだったんだ...」

 

数日前、僕が放つ匂いに耐えかねて、鼻を塞ぎ汗をかいていたユノは辛そうだった。

 

医師はデスクの引き出しから銀色のシートを取り出した。

 

「チャンミン君に処方される薬です。

『アルファ』に襲われないように、フェロモンの放出を防ぐ働きがあります」

 

ユノや母が口を揃えて言っていた薬がこれなのか。

 

それは何の変哲もない小さな白い錠剤が封入されたシートで、『サンプル』のシールが貼られていた。

 

「普通だね」

 

もっと派手派手しい色とサイズのものを想像していた。

 

ユノは僕の耳元で「ちゃんと忘れずに飲めよ」と囁いた。

 

『オメガ』には服薬の必要があるワケが分かった。

 

「ユノさん、申し訳ありません。

『アルファ』であるあなたには、ここは居づらかったと思います」

 

頭を下げた医師に、ユノは「いいえ、本当のことですから」と手を振った。

 

「なあ、チャミ」

 

ユノは僕に話しかけた。

 

「『アルファ』が『オメガ』を乱暴したくなってしまうのは事実だ。

でも、誤解して欲しくないことがある。

ここで言う『乱暴』ってのは殴る蹴るの暴力ではないんだ。

分かるだろ?」

 

「分かってるよ」

 

「俺は...つまり『アルファ』は『オメガ』と、ただセックスがしたくて襲ってしまうのではない」

 

ユノの口から「セックス」の言葉が出て、僕の心臓はどきんと音を立てた。

 

言葉の意味は知っているけれど、恥ずかしくて口にできない言葉。

 

今の僕には縁のない言葉...でも、耳ざとく反応してしまう言葉。

 

「性的に満足するためではなく、『オメガ』を妊娠させたいだけなんだよ」

 

首を傾げる僕に、ユノは「つまり...快楽を求めているだけじゃないってことさ」と付け加えた。

 

これで何度目になるのか、蒸した部屋で絡み合う2人の男性のシーンがフラッシュバックした。

 

肌色。

 

汗で光る背中。

 

ユノと誰か知らない男の人。

 

胸が苦しい。

 

「あの...先生。

『アルファ』の人たちは、『オメガ』だけじゃなく普通の人たちのことも襲いたくなるのですか?」

 

「いいえ。

『アルファ』は平均的に性欲が強いと言われていますが、『ベータ』に対して特別な欲求が湧くことはあり得ません」

 

「そうだぞ、チャミ。

もしそうなら、俺はとっく犯罪者だ」

 

ユノは医師の言葉に続けてそう言うと、ハハハと笑った。

 

僕はつられて笑う気になれなかった。

 

ユノが可哀想に思われてきたのだ。

 

「極めて動物的な欲求だけど、純粋に『オメガ』だけを求めています。

『アルファ』とは、『オメガ』を求め続ける属性、と言ってもいい。

性犯罪者とは全く違います」

 

「...チャンミン、そうなのよ」

と、母の手が伸びてきて、僕の二の腕をさすった。

 

僕のユノの間に新たな絆が築かれようとしているのを邪魔しないように、今日の母は1歩斜め後ろに控えているように思われた。

 

僕がユノを頼りきっていること、ユノが僕を支えてくれること...これは僕の想像だけれど、母はユノ宛の手紙の中で頼んだのではないだろうか?

 

僕を支えて欲しい、と。

 

『アルファ』を付き添いに初めての診察にいらっしゃる『オメガ』の方は、ほとんどいらっしゃいません。

チャンミン君は、ご家族や周囲の方が気付いて受診したパターンになります。

あなたは平均より早熟なのね。

8割以上の方が中学生の検査で判明します」

 

「...検査じゃない方法で分かる人たちもいますか?」

 

「とても、言いにくいんだけど...」と、医師の表情が途端に曇った。

 

「さっきの話に繋がります。

フェロモンの香りのせいで、『アルファ』を刺激してしまって...」

 

その後の話は想像がついた。

 

僕はラッキーだったのだ。

 

『アルファ』だけが『オメガ』のフェロモンを嗅ぎつけることができる。

 

『オメガ』だと気付いたのがユノだったから、僕は無事だったのだ。

 

(ユノでよかった...)

 

気が重くなる事実と、それを打ち消すプラスの事実が交互にやってきて、その都度僕の感情は浮き沈みした。

 

「『アルファ』の言葉を滅多なことで口にできない理由がここにあります。

性的なことからむと、人々はどうしても歪んだ理解をしがちです。

獣のようだとか、下半身でものを考えているだとか、性的に乱れているだとか。

ここでいう人々とは、『ベータ』のことです」

 

「そんなの...ひどい」

 

「この誤解に加えて、『アルファ』はひがみ感情にさらされやすい。

能力とカリスマ性から、『アルファ』は勝ち組の人生を歩む率が高いですから。

でも、『アルファ』に面と向かって対抗できる『ベータ』は滅多にいません。

国や企業、学術研究のトップに『アルファ』が多いとききますから。

...あくまでも想像ですが...」

 

僕は猫背になって、しゅんとしていた(いつもならここで、『姿勢が悪い』とユノに背中を叩かれるところだ)

 

「『オメガ』『アルファ』の属性も知らず、縁のない生活を送る人々が大半ですが、知っている人もいます。

『オメガ』も含め、『アルファ』は差別の対象ととらえていいでしょう。

だから、口にしてはいけないのです」

 

数時間にわたって受けた検査や診察、説明の結果、僕が知り得たのは、知るべき情報のほんの一端に過ぎないのだと思う。

 

自分が『オメガ』だったと知っただけじゃなく、家族の次に身近な人が『アルファ』だと知らされたらWパンチだっただろう。

 

さっきから生あくびがとまらない。

 

「先生...僕、気持ちが悪いです」

 

昼食のカレーライスが消化不良を起こしかけているみたいで、胃のあたりがムカムカした。

 

「吐きそうです...」

 

医師や母が椅子から腰を浮かせかけた瞬間、ユノの腕が誰よりも早く僕の肩を抱いた。

 

「今日はもう終わりにできませんか?

顔色が悪い」

 

(もうギブアップだ)

 

クラスメイトたちがアイスクリームを食べたり、プールで泳いでいる真昼間の今、僕は病院で人生をかけた重い話を聞かされている。

 

もとから薄い関係の、ややもすれば好きじゃなかったクラスメイトたちが、もっと遠い存在になった。

 

皆は『ベータ』で、僕だけが『オメガ』

 

クラスメイトの中に『アルファ』予備軍の者がいるかもしれない。

 

今日を境に、世の中を見るモノサシが変わった。

 

「横になりましょう」

 

行儀よく椅子に座っているのも限界だ。

 

だからと言って、現実を受け止めきれずに泣きわめくことができない僕だった。

 

それならば、頭から布団をかぶってダンゴムシみたいに丸くなって眠りたい。

 

医師の目配せで、看護師が僕の二の腕に血圧検査のベルトを巻きつけた。

 

空気が送り込まれるポンプの音は、蝉の鳴き声みたいな耳鳴りでかき消された。

 

水が渦を巻いて排水口に吸い込まれていくみたいに意識が遠のいていった。

 

 

(つづく)

 

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