~チャンミン~
「......」
僕の思考はしばし真空状態になった。
音は消え、視線はエレベータの箱の中にロックオン。
嘘だろ嘘だろ嘘だろ!!
なぜ...ここに...リアがいる!?
(注:リアはチャンミンの前カノです)
ここはユンのオフィスであり、彼のオフィス直行エレベータにリアは乗っていた。
エレベータの扉が開いた向こうに現れた人物が、前カレの僕だった。
リアは片手で口を覆い、目も大きく見開いていた。
とっさに民ちゃんの反応が気になって、隣を見た。
(...あれ?)
この状況、民ちゃんにとって予想していたものだったらしい。
なぜなら、「あちゃー」といった風に額を覆っていたからだ。
民ちゃんはユンの元で働いているから、驚かなくても当然か。
ユンのオフィスにリアが出入りしていることを、民ちゃんは知っていた。
そうか!
ユンのアートモデルをしていたんだ、そうだそうだ。
答えが見つかって、跳んでしまった意識が戻ってきた。
同棲していた部屋を出て行った日以来の再会だった。
リアは相変わらず美しい女性なんだろうけど、今の僕の心は彼女の元には一切なくて......それどころじゃない!
リアは僕の脇をつかつかと通り過ぎ、民ちゃんの二の腕をとった。
「やあ、久しぶり」の「やあ」も言う間もなかった。
「行きましょ」
リアは停車してあった黒い車...ユンの車だ...まで、民ちゃんを引っ張っていった。
(一緒に出掛けるのだろうか...?)
民ちゃんは僕から顔を背けたままだったけれど、その耳は真っ赤っかで、この状況にショックを受けていたことは確かだ。
「チャンミンさん?」
時間が...」
僕のスーツの肘を引っ張るのはエムさんだった。
ぐるぐるぐちゃぐちゃな気持ちは、クローゼットの中に放り込んだ。
今は仕事中だ。
整理整頓するのは後にしよう。
・
15分前に現地に到着していたのに、アポイントメント5分遅れでチャイムを鳴らした。
(そういえば、メールを読むようにと念を押されていたな)
先ほどの民ちゃんの言葉を思い出した。
(この打ち合わせが終わってからだな)
スタイリッシュなテーブルの向こうで、ユンが唇の端だけで笑っている。
僕とリアが付き合っていたとは、まさかユンは知らないだろう。
知っていたとしても、世間は狭いねのひとことで済ませられる話だ。
「コーヒーを淹れましょう」
「いえ、お気遣いなく」
「民くんは用事に行かせているんだ。
もしかして途中で会わなかったかな?」
「あ...」
「まあ...民さんってさっきのあの方でしょ?
アシスタントさんなんですか。
チャンミンさんとよく似ていて、ご兄弟かと勘違いしてしまって。
ね、チャンミンさん?」
僕に向けてエムさんは小首を傾げた。
「それから...モデルさんですか?
綺麗な人もいらっしゃいました」
(ああ...。
エムさん、余計なことを言わないで欲しい)
ユンの黒い目がぎらりと光った。
「モデル...?
ああ!
彼女は...そうですねぇ」
僕は必死で平静を装った。
ようし、頭の中を整理しよう。
その1・・・作品のモデル(リア)の前カレが、得意先の担当者(僕)
これは、リアがユンの作品モデルだと仮定した場合の話で、それしかユンのオフィスから登場した理由が思いつかない。
リアがここを出入りしていたことは、アシスタントの民ちゃんは当然知っていた。
エレベータでの民ちゃんとリアの反応を見れば明らかだ。
でも、僕に知らせずにいたのは、僕らのいざこざ(妊娠騒動)を側で見てきて、僕を動揺させたくないと気遣ったんだろう。
その2・・・ここからがデリケートな問題になる。
その担当者(僕)の今カノが、ユンが雇っているアシスタント(民ちゃん)であること。
常識的に考えて、取引先の者に知らせる必要のないプライベートな情報だ。
ところが、ユンが関わってくると話は違う。
こんなことを考えながら、サクサクと打ち合わせを進めていった。
エムさんは僕の隣でせっせとメモをとっている。
仕事熱心な方だなぁと、感心していた。
・
「それでは今日はこの辺で...」
ユンの意向をほぼ通すことで、最終号の段取りはうまく取りまとめることができた。
「エムさん、ちょっと...」
ユンに断って、エムさんを連れて席を立った。
「申し訳ないんだけど、ユンさんと話があるんだ。
今の仕事とは別の仕事の話が。
急に決まった話なんだ。
車の中で伝えておけばよかったね、ゴメン」
極めて私的な話だけど、ユンにはモデルの依頼をされていたから、あながち嘘ではない。
「ここから100m先に地下鉄があります。
送ってあげられなくて、すみません」
エムさんには悪いことをした。
そもそも、エムさんの同行を最初から断っておけばよかった話だ。
「もぉ...分かりました。
今度、お詫びしてくださいね」
エムさんは僕の二の腕をとん、と叩いた。
フランクな言葉遣いとボディタッチに驚いて、「そうですねぇ...ははは」と肯定とも否定ともつかない中途半端な返事をしてしまった。
(つづく)