~チャンミン~
民ちゃんは今、僕の部屋にいる。
床に正座し、両腿にこぶしを握ってカチンコチンになっている。
これから起こり得ることを思えば、民ちゃんの緊張も理解できる。
けれども、あんな風に緊張感丸出しにされると、僕にまで伝染し、グラスに飲み物を注ぐ 手がプルプルと震えてしまうのだ。
今夜、僕とカノジョは、初めてのアレをするために会っている...なんなんだ、この状況は。
「はい、どうぞ」
僕は民ちゃんにグラスを手渡すと、ローテーブルを挟んで彼女の真向かいに座った。
(僕の部屋で家具らしい家具はローテーブルだけだ。ソファを買うなら、民ちゃんとゆったり並んで座れるよう3人掛けサイズがいいな)
僕が飲んでいるのがノンアルコールドリンク(民ちゃんと同じ飲み物。彼女はお酒が弱い)だと知り、民ちゃんは
「あれ?
チャンミンさんは飲酒しないのですか?」と尋ねた。
「ああ...これね。
素面でいたいから」
「あらま!」
民ちゃんは驚きの声を上げ、パッと後ろに飛び退いた。
その目は大きく見開かれ、口を両手で覆っている...オーバーアクションはいつもの民ちゃんだ。
(言っちまった...)
民ちゃんを刺激する発言をしてしまった。
(あれ...?)
普段だったら、民ちゃんはニタニタ笑って僕をどスケベ扱いする(スケベな点は否定できない。男とはそういうものなのだ)
ところが今夜の民ちゃんは、無言のまま僕を凝視するだけなので、調子が狂う。
この後、何を言えばいいのか。
「そ、そうですよね。
アルコールが入ってしまいますと、記憶に残らない場合がありますからね。
私たちの記念すべき夜ですもの。
チャンミンさんには覚えていて欲しいですし、酔いにまかせて抱いて欲しくなんかありません」
「......」
「逆に私の方が、適度にアルコールを摂取した方がいいかもしれませんね。
リラックスした身体で、チャンミンさんに抱かれることができます」
「そ、そうだね...」
僕をからかっている台詞ではなく、民ちゃんは至極真面目に言っているだけに、こちらは反応に困る。
夜方面の意味合いの「抱く」や「抱かれる」の言葉は、「愛している」の言葉と同様、日常会話であまり使うことがない。
照れくさくて、発音するのにも勇気がいる。
そこで、「今日の恰好はいつもと違ってて、いい感じだね」と、僕は早々に話題を変えることにした。
民ちゃんが女性らしいふわふわとしたトップスに、ワイドパンツを合わせている姿は、スリムなシルエットのコーディネートを見慣れている分、新鮮だった。
「はい。
お洒落してみました」
民ちゃんは照れた風に肩をすくめて言う。
はにかんだ笑顔を見られただけで、ご馳走様だ。
「チャンミンさんこそ、着替えたどうです?
いつまでもスーツ姿じゃ、くつろげないのではないですか?」
「あ、うん...そう、確かに、そうだね、うん」
僕だって、民ちゃんを挙動不審だと笑えない。
「寝室で着替えてくるね」と、僕は寝室に引っ込んでスーツを脱いだ。
僕はここで、今さらなことに気づいたのだ。
敷布団なのだ。
リアと同棲していた部屋を出て、独り暮らしを始めた時、いかれた僕は 家具を揃えるならば、民ちゃんとの暮らしを想定したものにしようと、密かに夢見ていたのである。
一緒に眠るのなら大きなベッドがいいと、保留にしていた結果がこうだ。
シングルの敷布団か...これはこれで、侘びの雰囲気が出ていいかもしれないが...敷布団か...。
民ちゃんの背中が痛いかもしれない、僕の膝も痛くなるかもしれない。
どうして今の今まで、気付かなかったのだろう。
僕は案外、ロマンティストな男のようだ。
(カノジョとはスーパーに一緒に買い物をし、並んでキッチンに立ち、思い思いの時間を過ごす。ベランダでワインを飲みながら雑談をして、ベッドに入る、理想の交際...)
「チャンミンさ~ん」
僕が着替えに行ったまま戻ってこないから、民ちゃんに呼ばれてしまった。
ジャージの上下に着替えた僕は、顔を出すなりふざけて民ちゃんにこう言ってみた。
「ねえ、民ちゃん。
すぐにご飯にする?
それともお風呂?」
民ちゃんも負けていない。
「それとも『僕』?」
「民ちゃん!」
「あはははは」
民ちゃんは身をのけぞらせて、大笑いした。
「からかわないでよね」
「チャンミンさんったら、ガッチガチなんですもの。
私はともかく、チャンミンさんは百戦錬磨なんでしょう?」
「百戦錬磨って...?」
「ところでチャンミンさん」
民ちゃんはひょいひょいと僕を手招きした。
「ん?」
「キスされるのかなぁ?」なんて呑気なことを期待しながら、顔を寄せると...。
「これまで何回、エッチしたことがありますか?」
「はあ!?」
「言いたくないですか?
ですよね?
普通、訊くものじゃあありませんよね。
分かってます。
自分が変だってこと、ちゃんと分かってますから」
しょぼんと頭を垂れてしまった民ちゃんを見て、ここは正直に答えるべきかどうか、真剣に悩んでしまった。
これはガチで聞いているぞ、と。
「...嫉妬してしまいます。
だって...」
「終わったことはもう、覚えてないよ」
(って言っても、慰めにならないよなぁ)
でも、この言葉は本当のことで、覚えているのは事実だけで、デティールはぼやけてしまっているし、記憶にないと言い切ってもいいかもしれない。
今の恋と過去の恋、想いの比重、記憶の内訳。
心に占める位置関係。
民ちゃんには理解できないだろうなぁ、と思った。
この幼さは民ちゃんの魅力なんだろうけど、男によっては重く感じる者もいるだろうな。
僕は丸ごとオーライなんだけど。
(何も知らない彼女に手取り足取り...。
なんだよ、このエロい考えは!)
「チャンミンさ~ん」
「!」
民ちゃんに呼ばれて、僕の意識はいま現在に引き戻された。
「カウントは終わりましたか?」
「へ?」
きょとんとする僕に、民ちゃんはやれやれと呆れた風に首を振っている。
「チャンミンさんったら。
数えきれないほどなんですね。
あ。
ごめんなさい!
質問を間違えました。
エッチの総トータル回数じゃありませんでした。
さすがに数えるのは難しいでしょうから。
教えて欲しかったのは、過去に抱いてきた女の人の数でした」
「はあ...」
(民ちゃんときたら...)
僕は額に手をあて、がっくり首を折った
僕はしばし迷った末、「本当に知りたいの?」と訊ねた。
手を伸ばして民ちゃんの手を握った。
「僕にはそりゃあね、付き合っていた彼女は何人かいたよ。
民ちゃんから教えて欲しいと訊かれたら、隠さず教えてあげる。
隠すほどいないし、隠す理由もない。
でも、教えてしまったことで、民ちゃんはいい思いをしないんじゃないかな?
僕はそこを心配しているんだ」
「......」
民ちゃんは上目遣いでじっと、僕を見つめている。
いつ見ても綺麗な眼だなぁ、と思った。
「ほら、覚えてるでしょ?
僕なんて、民ちゃんがユンに片想いしていたって知っただけで、あの有り様だよ?
とても苦しかったから、民ちゃんを同じように苦しめたくないんだ」
僕は繋いだ手の指と指を絡めた。
「今の僕には、民ちゃんしか見えてないし、民ちゃんと出逢った時からの記憶しかないよ。
でも、不安なんだよね?
僕がそう言っても、全部は信じ切れないよね?」
(あ...)
民ちゃんの鼻の下が伸び、顎がしわしわになっている。
(泣いちゃうかも...)
民ちゃんはすん、と鼻をすすった。
「知りたいような知りたくないような...これからチャンミンさんと何回すれば、歴代の彼女さんを追い越せるか...。
そんなことを考えてしまって...」
「追い越すとか追い越さないとかなんて...」
「も~、すごい緊張しているんです!
私じゃチャンミンさんを満足させてあげられるかどうか、自信がなくなってしまって...。
呼吸も浅いし、変な汗をかくし、肩も凝っています」
「リラックスして。
大丈夫だから」
僕は民ちゃんの肩を揉んだ。
「ホントだ。
肩がガチガチだよ」
「あ~、いい感じです。
もうちょっと強くてもいいです。
チャンミンさんって肩もみ上手いですね~」
(なにやってんだ、僕らは?)
僕に肩を揉まれてぐらぐらゆれる頭、僕の目の前にさらされた、民ちゃんの細い首、白いうなじ。
(綺麗だなぁ...)
よかった...民ちゃんの不安の焦点は、『今』にある。
僕が心配するほど、民ちゃんは僕の過去に嫉妬していないんじゃないか、って思ったんだけど...楽観的過ぎるかな?
「民ちゃんにはリラックスしてて欲しいんだ」
「はい。
『僕に身をゆだねていればいいよ、僕が全部やってあげるから。
僕が気持ちよくさせてあげる』
...って、言わないんですか?」
「民ちゃん!!」
(つづく)