滅多に湯船に湯を張ることなどないシヅクだったが、今夜はそうも言っていられない。
身体の芯まで冷え切って、ぞくぞくとした震えがガチガチと歯を鳴らす。
浴室は白い湯気でいっぱいで、熱いお湯を蛇口から細く出しっぱなしにして、顎まで浸かって全身を温めた。
「いたたた」
シヅクはこわばったふくらはぎを、両手でもみほぐした。
右脚の足首をつかむと、軽くひねった。
きつく締め付けていた箇所に、お湯が流れ込んでシヅクは深く息を吐いた。
両手の中のシリコン製のものを、じっと見つめる。
(冷えはやっぱりよくないな...ポンプ室では、冷たいどころか痛くて辛かった)
足先の血行がよくなるよう、両手でさすった。
シヅクは、湯船の淵に置いた「足」を見つめた。
(この義足はよく出来ている。
自由に歩けるし、走ることもできる。
周囲も全然気づかないし、私自身も違和感がない。
でも、冷えるのはいかんなぁ。
義足生活も20年かぁ...再建手術を受けてもいいんだけどなぁ)
シズクは縁に後頭部をもたせかけ、白い湯気に煙る天井を見上げてひとりごちた。
「はっくしょん!」
(熱があるかもしれん...そうなっても仕方ないよなぁ...)
熱いお湯の中にいるのに、ぞくぞく震えが止まらない。
(チャンミンは大丈夫かなぁ...)
湯船から立ち上がると、バスタオルを身体に巻き付け、片足けんけんの要領で寝室に向かった。
~チャンミン~
相乗りしたタクシーがシヅクのマンションに停まった。
「ひとりで大丈夫?
部屋の前まで送るよ」
とシヅクと一緒にタクシーを降りたが、
「大丈夫だから。
あんたこそ、早く家に帰りな」
と、シヅクに無理やりタクシーに戻されてしまった。
火傷がしそうに熱いシャワーを浴びて、十分温まった僕は、分厚いスウェットの上下を着た。
濡れた洋服は、洗濯後、乾燥機の中で回っている。
ベッドのヘッドレストにもたれかかり、毛布にくるまった。
熱いお茶と、ブランデーを交互に口に運びながら、今日一日のことをふり返る。
シヅクに断られても、彼女の部屋まで見送った方がよかったのかもしれない。
しまった!
何か温まるものを買って、シヅクに渡せばよかった。
10日程前から、僕は就寝前にその日1日、自分が言ったこと、やったことをひとつひとつ確認するのが日課になっていた。
何か間違ったことを口にしていなかったか。
自分はどんな行動をとったか。
相手は、どう反応したか、そしてどんなことを自分に言ったか。
それに対して、自分はどう思ったか、どう感じたか。
僕の頭を占めるのは、シヅクのことばかりだ。
シヅクは僕のことを、どんな奴だと思っているんだろう?
僕はタブレットを膝に置き、しばらくスクロールをした後、目的のものを見つけてタップした。
ディスプレイの中で、二人の男女が笑ったり、泣いたり、身を寄せ合ったりしている。
女性役が何かを喋って、男性役がそれに答えて。
女性役が目を伏せて、首を振っている。
男性役が彼女の頭を引き寄せて、囁いた。
『好きだよ』と囁いた。
「すきだ...。
すき...?
すき...」
僕は何度も、この言葉に唇にのせてつぶやいた。
タブレットを膝から下ろして、僕は顔を覆った。
「すき」
手の平に、「すき」と紡ぐ僕の唇が触れる。
シヅクは僕のことを、どう思ってる?
僕は、シヅクのことばかり考えている。
ディスプレイから放たれる光が瞬いて、シーツをパカパカと照らす。
僕はシヅクのことを、どう思ってる?
じっとしていられなくて、勢いよく毛布を跳ねのけてベッドを出た。
運転終了を知らせる乾燥機のアラーム音が聞こえた。
シヅクは...震えていた。
真っ青な顔をして、震えていた。
僕が熱を出して震えていた時、シヅクは僕のことをうんと心配してくれた。
マフラーを僕の首に巻いてくれた。
温かかった...。
僕はスウェットを脱いで、クローゼットから黒いニットと黒いパンツをとって身につけた。
鏡をちらっとみたら、あちこち毛先がはねているけれど、別にいいや。
コートを羽織って、靴を履いた。
僕は、シヅクのことをどう思ってる?
シヅクを部屋まで送らず帰ってきてしまった。
シヅクが僕に「早く帰れ」と言ったから。
でも本当は、
僕はどうしたかった?
僕は...僕は、もっとシヅクの側にいたかった
シヅクが風邪をひいたりしたら、いけない。
シヅクのことが心配だった。
僕はシヅクのことを、どう思っている?
僕は、シヅクのことが、好きだ。
チャンミンは薬局に飛び込んだ。
(何をもっていってあげたらいいかな)
腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。
(これじゃあ、シヅクを子供扱いしてるみたいだ!
のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。
シヅクが欲しがるものってなんだろ?)
シヅクの持ち物や、話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。
(青りんご味の歯磨き粉?
...へぇ、面白そうだな)
「あっ!」
チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。
「ああ!
すみません!」
チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ」
その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。
あまりにまじまじと彼女が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。
「すみません。
......えっと...何か?」
肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。
「覚えていませんか?」
女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。
「ああ!
あの時の」
数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。
「あの時は、助かりました」
チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。
「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」
女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。
(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)
再び居心地悪くなったチャンミン。
(世間話とか、雑談とか...苦手なんだよ)
「職場が近くなんです。
ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」
話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。
「あの!」
「はい?」
不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。
(僕は早くシヅクのところに行きたいんだ)
「あなたのお名前は?」
「?」
(名前?)
「変なことを聞いてごめんなさい。
びっくりしますよね」
(びっくりするに決まってるだろ。
急に名前を聞かれるなんて)
チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。
チャンミンには、親しい者(現在はシヅク)とそれ以外の者しかいない。
それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。
女性の顔は真っ赤になっている。
「本当にごめんなさい。
忘れてください」
頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。
(勿体ぶるつもりこれっぽっちもない。
名前くらい、どうってことないし)
「チャンミンです。
僕の名前は、チャンミンです」
チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、チャンミンを見つめる目がますます見開いた。
何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。
(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)
チャンミンは、女性の返事を待った。
「ごめんなさい!
私は、キリと申します。
この薬局の上に住んでいます。
ここは2階から上がマンションになっているんです」
「はあ、そうですか...」
(キリとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)
キリは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。
「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」
「はあ」
(意味が分からない。
素直に従っておけば、角が立たないだろう)
キリにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。
「あの!」
また呼び止められて、チャンミンは今度は不機嫌さを隠さずふり返った。
(今度は何だよ?)
「何か?」
「チャンミンさんは、もしかして...
XX高校の卒業生ですか?」
「XX高校...?」
チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、
(いけない!)
眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。
「いいえ、違います」
固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。
そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。
(違います、ととっさに答えたけれど、
正確に言うと、
『覚えていない』んだ。
高校?
僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、
あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。
思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって、立っているのか座っているのかも分からなくなって、眩暈がする。
頭痛に悩まされているのも、僕の頭に、どこか異常があるせいなのかもしれない)
チャンミンは立ち止まった
(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。
頭が痛いのもそのせいだ。
過去のことを思い出せない。
高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。
もしかしたら、
思い出せないのではなく、
少しずつ、忘れていっているのかもしれない。
僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)
チャンミンは白い息を吐くと、シヅクの住むマンションを見上げた。
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