(12)僕を食べてください★

 

 

「おーい!

チャンミーン、いるかあ?」

 

玄関先から呼ぶ声に出てみると、近所のNおじさんだった。

 

「おお、チャンミン、久しぶりだなぁ。

お前が帰ってきていると聞いてな」

 

Nおじさんは、両親の事故の際、行方不明だった僕を血眼に探しまわった末、灌木の影にいた僕を見つけてくれた人だ。

 

血まみれの顔でぼーっとしている僕を抱きしめて、「よかった、よかった」とおいおい泣いていたことを、よく覚えている。

 

「せっかくの休みのところを、すまないな。

男手が必要になったんだ。

ちょっとだけ手を貸してくれないか?」

 

「いいですよ」

 

僕は即答して、靴を履いてNおじさんを追った。

 

何かしら手を動かしていないと、頭の中がキキのことでいっぱいで、爆発しそうだった。

 

Nおじさんの車に便乗し、舗装されていない林道を数分ほど進んで着いた先は、捕獲獣処理場だった。

 

建って間もないここはシャッターを開けると直接建物の中へ、車を乗り入れることができる構造をしている。

 

車を降りた途端、けたたましい吠え声を浴びせられて、脚がすくんだ。

 

建物脇に繋がれた4頭の猟犬が、尖った歯をむき出しに、唾液をとばしながら、僕に向かってぎゃんぎゃんと吠えたてている。

 

「近づくなよ。

食い殺されっぞ」

 

「はあ」

 

「あの檻にも近づくな。

瓜坊を連れてたから、気が荒い」

 

鉄製の檻の中に子牛ほどある猪が、己を閉じ込める鉄棒目がけて突進し、助走をつけては突進しを繰り返している。

 

「汚れるからこれをつけろ」

 

手渡されたゴム製のエプロンと、手袋をつけ、ゴム長靴に履きかえた。

 

コンクリート床の上に、大型犬サイズの猪がころがっていた。

 

「これは...?」

 

「罠にかかってたんだ。

まさか今日捕れるとは思わなくて、連れがいなくてな。

早く血抜きをしないと、使い物にならない...」

 

Nおじさんは天井に取り付けられたフックの位置を調節すると、僕に手招きした。

 

「小さい方だが、重いぞ。

腰を落として持ち上げるんだ」

 

僕とNおじさんが抱えたその猪を、いったんステンレス製の台に置くと、後ろ脚にワイヤーを巻き付けた後、天井から下がる杭にひっかけた。

 

ハンドルを回すと、猪の身体がくいくいと持ち上がっている。

 

僕は、猟犬の牙や、黒々とした猪の死体や、意外に清潔な造りの処理場内や、全てに圧倒されてしまって、終始無言だった。

 

猪が放つ獣臭に鼻を押さえていると、

 

「もういいぞ。

ここまできたら、あとは一人でできるから」

 

そう言って、Nおじさんは巨大な金属たらいを、ぶらさがる猪の真下まで足で蹴り寄せた。

 

この金属たらいを満たすのは何なのか想像して身震いした。

 

「他に手伝えることは...?」

 

「ここからは、グロいぞ。

そんなに青い顔をしてたら、無理だ」

 

血の匂いを嗅ぎつけて、興奮した犬たちが唸り声をあげ、長い爪で壁をガリガリいわせていた。

 

「あいつらには、褒美にモツを投げてやるんだ」

 

「それじゃあ...僕...帰ります」

 

Nおじさんは、先が曲がった刃物を持った手を上げて、

 

「助かったよ、じゃあな」

 

と、日に焼けた顔で笑った。

 

外に出た途端、また猟犬に吠え付かれてビクついたが、建物内の生臭い空気から解放されてホッとした。

 

ばあちゃんちからこの処理場は車だと数分かかるが、山の中を突っ切れば徒歩で10分そこそこの距離にある。

 

スニーカー履きだったし、やぶ蚊に刺されるのは嫌だった僕は、来た道を辿って帰ることにした。

 

森林管理の車が通れるよう急場ごしらえした砂利道だ。

 

帰省して4日目。

 

明後日には、街に帰らなければならない。

 

怪我を負ったはずの二の腕を、反対側の手でさすった。

 

初めからキキとは出会っていなかったのかもしれない。

 

怪我などしていなかったのかもしれない。

 

到着したあの日は、山道で転んだだけで、頭を打つかなんかしてボーっとしてたんだ。

 

僕が密かに抱いている卑猥な欲望を、夢の中で実現させていたに違いない。

 

この3日間の僕は、夢の世界に生きていたということ。

 

夢精だったんだ。

 

そうに決まっている。

 

夢だったらいいのに。

 

夢だったら、キキを恋しがっても仕方がないと諦められる。

 

砂利道は舗装道路にぶつかり、右に行けばばあちゃんち、左に行けば廃工場だ。

 

確かめてみないと。

 

あそこを目で見て、現実だったのかどうか確かめてみないと。

 

僕は左折し、くねくねとした坂道を歩いて行った。

 

キキとの初めての出会いまで時を巻き戻した。

 

仰向けに突き倒された時、頬を叩いた雨水と僕を見下ろしたキキの墨色に沈んだ瞳。

 

目覚めた時の乾いたシーツの感触、噛みつかれた唇の痛み。

 

「チャンミンは、いやらしい子」と耳元で囁かれた声音。

 

キキがしたこと、キキにしたこと、僕が漏らした喘ぎ声、身を貫くほどの快感を、ひとつひとつ反芻してみた。

 

こんなにはっきりと五感で覚えているのに、これが夢だと言いきれるのだろうか。

 

木陰のおかげで日差しは避けられるが、気温は高く、汗がとめどなく噴き出す。

 

(しまったな...喉が渇いた)

 

立ち止まって、汗に濡れた前髪をかきあげ、ガードレール下の川を見下ろした。

 

廃工場の谷川と、他の支流が合流したものが、今見下ろしている川だ。

 

僕の陰毛に埋もれた美しい青白い顔が、パッと脳裏に浮かんだ時、ディーゼルエンジン特有のガラガラ音が後方から聞こえてきた。

 

ガードレールにくっつくほど身を寄せた。

 

アスファルトの隙間から生える雑草を踏みつけたスニーカーに目を落として、車が通り過ぎるのを待っていた。

 

深いブルーが目に飛び込み、はっとして顔を上げた。

 

サイドウィンドウがゆっくりと下りて、サングラスをかけた白い顔が白い歯を見せて笑っている。

 

「チャンミン」

 

馬鹿みたいに惚けた顔をしていたと思う。

 

僕を置き去りにして、二度と戻ってこないのではないかと思い込んで泣いたこと。

 

キキの不在に予想以上に衝撃を受けた自分がいたこと。

 

これまでの逢瀬は夢の出来事だと、半ば本気で信じかけていたこと。

 

これら僕を苦しめていた気持ちが、一瞬で消え失せてしまった。

 

「キキ...」

 

叫びたいのに、キキの手を取って頬ずりをしたいくらいだったのに、僕はかすれた声でキキの名前をつぶやいただけだった。

 

「乗る?」

 

僕はこくんと頷いて、助手席側にまわって乗り込んだ。

 

車内はエアコンが効いていて、乾いた涼しい風が心地よかった。

 

「ドライブしようか」

 

言葉が出てこない僕は、こくんと頷いた。

 

「そこに飲み物があるから」

 

助手席の足元にあったビニール袋から、よく冷えた炭酸水を1本とった。

 

キキは次の退避場でX5の向きを変えると、道を下り始めた。

 

「どこに...行ってたんだ?」

 

キキの横顔を、サングラスのつるを引っかけた小さくて白い耳を見る僕は、恋焦がれる目をしているだろう。

 

「荷物を受け取りに街へ出ていた」

 

「...僕も」

 

「ん?」

 

「僕も...連れていけばよかったじゃないか。

僕は...置いて行かれたかと思って...っく...」

 

「...チャンミン」

 

「もう戻ってこないのかと思って...ひっ...く」

 

言葉は途中から嗚咽交じりになった。

 

「キキがいなくなって...全部夢だったんじゃないかって...」

 

しまいには、子供みたいに泣いていた。

 

「チャンミン...ごめんね」

 

キキはX5を停めるとシートベルトを外し、腕を伸ばして僕の頭を引き寄せた。

 

「寂しかったんだ」

 

僕の頬や首に触れるキキの腕が冷たい。

 

でも、僕の頭を撫ぜるキキの手が心地よくて、「ごめんね」というキキの声音が優しかった。

 

キキにまた会えた安堵と、自分の思い込みの激しさに呆れた。

 

とにかく、ぐちゃぐちゃになった感情の処理が追い付かなくて、涙を流すことでしか表現できなかった。

 

 


 

キキが停車した場所は、例の橋のたもとだった。

 

僕らはX5から降りて、眼下十数メートル下を流れる川を欄干から見下ろした。

 

「キキ。

ここだけ新しいだろ?」

 

そこだけが塗料の色が濃い箇所を指さした。

 

キキに問われてもいないのに、僕は滔々と子供の頃に遭った事故のことを、両親を亡くしたことを喋っていた。

 

その間僕は、焦げ茶色のくすんだ欄干にシミ一つない白い手を置いたキキの、サングラス越しの視線を感じていた。

 

「...で、これがその時の勲章なんだ」

 

前髪をあげて、生え際の傷跡を見せた。

 

僕は目を閉じてキキのひんやりとした指が傷跡をなぞられるがままになっていた。

 

「チャンミンが発見されたっていう場所はどこ?」

 

「こっち」

 

河原へ降りるための梯子へキキを案内した。

 

夏の間、川遊びをする子供たちのために作られた木製の簡易的なものだ。

 

「滑るから、気を付けて」

 

僕らは1歩ごとにしなる足場板を下りてゆき、丸石に足をとられながら橋脚の傍まで行きついた。

 

「この辺りだよ」

 

カワヤナギの茂みを指さした。

 

十数年前、僕はこの茂みの中で、母親のバッグを抱きしめて眠っていた。

 

その時点では、父親の死のことも瀕死の母親のことも、知らずに。

 

「そうか...」

 

ノースリーブの白いワンピースを着たキキは、さしずめ『避暑地のお嬢様』といった風だった。

 

「眩しいね」

 

僕ら橋脚の真下まで移動した。

 

コンクリート製の橋脚にもたれて、橋げたの真裏を見上げた。

 

時折、橋を渡る車の音がして、かすかに橋げたが揺れるのが分かる。

 

キキの手が僕の腕に触れた。

 

「ねえ、チャンミン」

 

僕の正面に立ったキキは、僕の首に腕を回した。

 

「悲しかった?」

 

「当然だろ。

大切な家族だし、二度と参観日にも、運動会にも来てもらえないんだ。

家に帰っても「おかえり」と言ってもらえない。

悪さをして頭を叩かれることも、二度とないんだ。

お父さんとお母さんの、生身の身体がなくなっちゃうってことが辛かった。

でも、一番辛いのは、友達のお父さんとお母さんを見る時かな。

どうして僕には、いないんだろうって、羨ましかった。

まだ子供だったから、思い出が少なかったのが幸いだった」

 

ははっと乾いた笑いを浮かべて、

 

「でもね、僕も一緒に死んでしまえばよかったとは思わなかった。

どうして僕だけが助かったのかは謎のままだけれど...」

 

両親を思い出して、センチメンタルなことを話しているのに、僕の腕はキキの身体を力いっぱい抱きしめていた。

 

キキの長い髪に鼻をうずめたら、あの甘い香りを思い切り吸い込んでしまって、抜き差しならない情欲に侵食されてきた。

 

キキと会ったら、真っ先にしたいこと。

 

キキの腰を引き寄せて、僕のそれに押し付ける。

 

「私のことが好きなんだ?」

 

「うん」

 

「好きだから、したいんだ?」

 

頷いた僕は橋脚と擁壁が作る空間へキキの手を引いて連れて行くと、彼女の身体を擁壁に押し付けた。

 

キキのスカートをたくし上げ、ずらした下着の隙間から、いつの間にか熱く硬く立ち上がっていたものを、キキの中へ侵入させた。

 

「っん...」

 

既に温かく潤ったもので僕のものは包み込まれ、低い唸り声を漏らす。

 

片腕でキキの腰を支え、もう一方でキキの片脚を高く持ち上げ、侵入できる限界まで深く腰を埋めた。

 

僕のものが、キキの中で脈打っていた。

 

 

キキが戻ってきてよかった。

 

夢じゃなくてよかった。

 

キキの身体が欲しい。

 

代わりに、僕の身体をあげる。

 

 

でも、僕は初心だから、心はあっち、身体はこっち、といった具合に分けられない。

 

 

心も一緒に差し出してしまうけれど、それで構わないよね?

 

 

(つづく)

 

 

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