~あの男~
~チャンミン~
僕は廊下に出て通話ボタンを押した。
「民ちゃん!
どうした?」
『お仕事中のところ、ごめんなさい!
真っ先にお知らせしたいことがあってお電話しました』
ゆっくり話せるようにと、僕は給湯室へ足早に移動した。
「何かあったの?
大丈夫?」
『100%大丈夫です!
グッドニュースです!
ワタクシ...なんと...。
お仕事決まりましたー!』
「おー!」
僕はこぶしを作って「よし!」と小さくガッツポーズをした。
自分のことのように、嬉しかったのだ。
一番に知らせたい人物に、僕が選ばれたことが嬉しかった。
「お祝いしよう!
今夜、飲みに行こうか?」
『えー、昨日も行ったじゃないですか。
いいんですか?
リアさ...』
民ちゃんが、僕の『リアと別れる』発言を気にしている。
「気を遣ってくれてありがとう」
別れを伝えるタイミングに、頭を悩ませていた。
いつ、どこで、どのように、リアに打ち明けようか。
恋人関係を解消するのは容易くない。
住まいを共にしている故に、どちらかが出ていかなければならない。
僕か、リアか。
昼過ぎに届いた通知内容が頭をよぎる。
『口座残高不足により、指定日に振替できませんでした』
3か月連続だった。
リアからの入金が滞っていた。
リアの求める条件に合わせて選んだ部屋だった。
リアの収入の方がはるかに多いに違いなかったが、男の意地で家賃は平等に折半しようと決めた。
ごく一般的なサラリーマンに過ぎない僕には、あの部屋の賃料を一人で支払い続ける資金力がない。
困った。
民ちゃんには、あの部屋に住んだらいいと言っておいて、現実的に考えると、あの部屋を維持できないことに気付いたのだ。
リアとの同棲生活を解消したら、1LDK辺りにレベルダウンしなければならない。
1LDKで民ちゃんと暮らすということは...民ちゃんと同じ部屋で寝る...。
無理が...あるな。
いくら似ているとはいえ、僕らは他人同士。
それに、民ちゃんは...女の子だ。
1LDKでは、民ちゃんとの同居は出来ない。
民ちゃんとの同居は...無理か。
おい、チャンミン!
民ちゃんと『一緒に暮らす』前提でいるじゃないか。
僕とリアが選んだベッドで、僕と民ちゃんがひとつの枕を分け合って眠っている。
ひとつの枕に、同じ顔が並んでいる。
同じ顔をして、別々の夢を見ている。
僕と民ちゃんは手を繋いでいる。
ぼわーんと浮かんだイメージ画に僕は赤くなった。
こらー。
何、想像してるんだ!
髪をぐちゃぐちゃにかきむしった。
「ふう...」
缶コーヒーでも飲んで、おかしくなった頭を冷まそう。
でも...。
眠る民ちゃんの顔を見てみたい。
きっと、ものすごく可愛い寝顔なんだろう、と思った。
・
リアとのすれ違いの生活は相変わらずだった。
リアが帰宅するのは深夜遅くで、夢うつつの中マットレスの反対側が沈み込むのを感じる。
僕にすり寄ってくることはもう、なかった。
安堵したけれど、かすかな寂しさも心をかすって、リアへの気持ちがまだ残っているのでは?とうろたえる。
リアに別れを告げられるだろうか。
気持ちは固まったのに、リアの反応を想像すると身がすくんだ。
罵りの言葉、非難の言葉をたっぷりと浴びせられるだろう。
大丈夫、耐えられる。
これまでの生活を清算したいんだ。
彼女のドレスをクリーニングに預け、彼女の下着を洗濯し、彼女が必要とする栄養素を含んだ食材で冷蔵庫を満たした。
トイレットペーパーを買い置きし、加湿器の水を補充し、髪の毛が散らばる洗面所を掃除した。
家の中をきちんと整えることは、僕の性に合ってるから苦じゃない。
気紛れに求められた時、セックスの相手をした。
ムラムラした時に、たまたま近くにいたのが僕だった、みたいに。
ムシャクシャした気持ちをぶつけるためのセックス。
昨夜リアに押し倒されたときに、気付いた。
僕にも心がある。
僕は恋人なんだよ。
リアのハウスキーパーじゃない。
この部屋に暮らし始めた当初、僕とリアの間で確かに燃えていた恋の炎は、数か月で勢いを失い、さらに数か月を経た現在は消える一歩手前。
2人仲良く穏やかな暮らしをしたかったのは、僕だけだったんだ。
僕は、二人で共にする行為の中から幸せを見つけるタイプの人間だ。
ところが、リアはそうじゃない。
リアにとって、あくびが出るほど退屈な生活だったんだろう。
僕らは相性がよくなかっただけのこと。
リアを責められない。
とっくの前に、リアの生活から僕の存在は閉め出されていた。
僕から同棲解消を切り出されても、あっさりと首を縦に振ってくれると思った。
僕と民ちゃんとの生活は順調だった。
料理の腕は上達の兆しゼロで、オムレツという名のスクランブルエッグを毎朝食べた。
パセリが入っていたり、チーズを混ぜていたりと、バリエーションを意識している姿が、微笑ましい。
民ちゃんの就職が決まった日の夜、外で飲むのを止めて(民ちゃんの要望で)、宅配ピザを頼んで自宅飲みした。
リアは仕事に行ったのか不在だった。
「お仕事、頑張りますね」
僕らはソファにもたれて、ローテーブルに2枚並べたLサイズピザをつまみにしていた。
ウキウキ浮かれた民ちゃんは終始笑顔で、左右非対称に目を細めていた。
「どんな会社なの?」
「うーんと、その人が一人でやってるところです」
「仕事内容は?」
「アシスタントです」
「何をアシストする仕事なの?」
「実はー、よく分かんないです」
「そんなんで大丈夫なの?
怪しい仕事じゃないよね?」
「ご心配なく。
ちゃーんとした人ですから」
ほろ酔い民ちゃんは、口をとがらせて僕の肩を押す。
「民ちゃん!」
民ちゃんの力が強くて、僕は手にしたビールを傾けてしまった。
「もー」
「ごめんなさい...」
「仕事始めはいつから?」
「来月からです。
お義姉さんの出産日がもうすぐですしね。
カット・コンテストのバイトもあるので、それまでは週に3日、時短でいいって融通してもらいました」
「カット・コンテスト!?」
民ちゃんは、両手で口を覆っていた。
初耳だった。
「内緒にするつもりが...!」
「どうして内緒にする必要があるの?」
「恥ずかしかったからです」
カット・モデルに採用された経緯を説明してもらった。
「それのどこが恥ずかしいの?」
「だって...。
『背が高いだけで選ばれたんだろ?』ってからかわれたくなかったから...」
民ちゃんは立てた両膝に顔を伏せてしまい、語尾が消え入りそうだった。
恐らく民ちゃんは、身長のことをさんざんからかわれてきたんだろうな。
「僕はからかったりしないってこと、知ってるでしょ?」
「そうでしたね」
民ちゃんはむくりと顔を上げ、長い前髪がはらりと片目を覆った。
僕の手を出す前に、民ちゃんは前髪を耳にかけてしまった。
残念。
「びっくりしてくださいよ。
男のモデルじゃなくて、女のモデルとしてですよ。
あの美容師さんは...Kさんって言うんです。
私のことを『女そのもの』って言ってくれたんですよ、うふふふ」
両手で顔を覆って肩をよじる仕草が、可愛いったら。
女性として扱われて余程嬉しかったんだな。
民ちゃんの後頭部を撫ぜる僕の心に、優しい想いが満ち満ちた。
「チャンミンさんに、写真見せてあげますね」
「写真?
コンテストはいつなの?
応援に行きたい」
「再来週です。
でも...平日なんです」
「そっかー。
残念」
「写真を見せてあげますね」
民ちゃんのくせ毛の襟足や、細くて長い首は、僕も同じものを持っているはずなのに。
無防備に僕の目前にさらされたそれに色気を感じて、僕の体温が1度上がったような気がした。
(つづく)
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