~やきもち~
~チャンミン~
リビングの窓を開けてバルコニーに出た。
昼間の熱気を冷ましてくれた雨が止み、湿度に満ちているけど涼しい夜気に包まれた。
足が濡れるのも構わず裸足でぺたぺた歩いて、手すりに両腕を乗せる。
「?」
人の気配がする方を見ると、手すりにもたれてブツブツ何かをつぶやいている民ちゃんが居た。
6畳間のドアをノックする勇気がなかっただけに、バルコニーでの遭遇は嬉しかった。
僕とそっくりのシルエットだけれども、僕よりも線が細い。
暗闇に、民ちゃんの白い髪が浮かび上がっている。
裸足で足音がしなかったせいもあって、民ちゃんは僕の存在に全然気づいていないようだ。
ぶつぶつ言っていたかと思うと、おでこをごんごんと手すりに打ち付け始めた。
民ちゃんったら、何してるんだよ。
民ちゃんの頭に触れた。
形のよい後頭部とやわらかい髪を手の平で感じた。
突然の僕の登場に民ちゃんはビクリと驚いた後、僕の手を払いのけた。
そして、ぷいと顔を背けてしまった。
僕を拒絶する民ちゃんは、初めてだった。
「怒ってる?」
民ちゃんがなぜ怒っているのか見当がつかない。
「目に毒ですから、そういうことは寝室でやってください」とか、「心配して損しました」とか、か?
「怒ってませんよ」
民ちゃんがぶすっとした顔をしているのは、暗くたって想像がつく。
膨れている理由がヤキモチだったらいいなぁ、って小さく期待した。
「チャンミンさん」
「ん?」
リアと抱き合っていたことを咎められるのかと身構えて、何て答えようか頭をフル回転させた。
「男の人って、好きじゃない人ともキスってできるんですか?」
「えっ!?」
リアとキスをしているところを目撃されたのだと、ヒヤッとした。
「どうしてそんな質問をするの?」
動揺を悟られないよう、聞き返す。
「できる」と答えたら、僕という男は誰とでも気軽にするタイプだと誤解される。
「できない」と答えたら、リアとしていたキスは「ホンモノ」だと誤解される。
だから、民ちゃんの質問に答えられない。
「うーん...男の人の意見が聞きたかっただけです」
そよ風が民ちゃんの前髪をかすかに揺らした。
「チャンミンさんのファーストキスって、いつでしたか?」
僕は目をつむって過去の記憶をたどる。
「高校生...頃かな?
民ちゃんは?」
「えー、聞きますかー?」
両頬に手を当てた民ちゃんが、くねくねし出した。
「うふふふ、あのですね...」
民ちゃんの言葉の続きが、携帯電話の着信音に遮られた。
ハーフパンツのポケットを探ったが、僕の携帯電話はリビングにあるんだった。
民ちゃんの方もお尻の辺りを探っている。
タイツみたいにぴたっとしたレギンスパンツにポケットなんてないはず...と思っていたら、背中から携帯電話を取り出して「もしもし」と応答している。
どうやらレギンスパンツのウエストゴムに携帯電話を挟んでいたみたいだ。
民ちゃんらしくてクスッとしていたら、
「えええっー!!」
民ちゃんの大声と、その後のやり取りが緊迫していて、民ちゃんの通話が終わるのをじりじりと待った。
「私は今から、出かけないといけません!!」
民ちゃんはそう宣言すると、大慌てで6畳間へ走っていく。
「民ちゃん!」
僕も民ちゃんを追いかける。
「!!!」
余程慌てているのか、民ちゃんは僕に構わずテキパキと着替え出した。
回れ右すればいいのに、僕はついつい観察してしまう。
「どうしたの?
ご家族に何かあった、とか?」
「そんなところです」
Tシャツとデニムパンツ姿になった民ちゃんは、リュックサックを背負った。
「もうすぐ産まれそうなんですって。
お兄ちゃんのお嫁さんです」
「え!」
「お義姉さんが入院中は、私が留守番を仰せつかってるんです。
ちっちゃい子が3人いるから、お兄ちゃんだけじゃ心配です。
今から病院に行ってきます」
「民ちゃん!
病院までどうやって行くの?」
時刻は午前2時だ。
「タクシーです」
こんな時、車を持っていたら民ちゃんを送ってあげられるのに。
「しばらく朝ご飯を用意してあげられませんが、ちゃんとご飯を食べてからお仕事に行ってくださいね」
「じゃ」っと勇ましく片手を挙げた民ちゃんは、出かけようとした。
「待った!」
僕は民ちゃんの手首をつかんだ。
「僕も行く。
一緒に行くから」
「えー。
チャンミンさんが来ても、何の役にもたちませんよ。
病院でウロウロされても、迷惑ですよ?」
「違うって、民ちゃんを送っていくの。
一人で行かせたら心配だから」
「私は子供じゃありませんよ?」
「行く!
僕は行くと決めたから!
着がえるから3分待って!」
~民~
病院までのタクシーの中、猛烈な睡魔に襲われた私はうとうとしかけていた。
ジェットコースターみたいに感情が急上昇と急降下を繰り返して、ヘトヘトだった。
これから数日間は、お兄ちゃんちの家事手伝いで大わらわになって、思い煩う暇もないだろうから助かった。
隣のチャンミンさんは、タクシーに乗り込んでからずっと無言で、反対側のサイドウィンドウの外を見ている。
深夜過ぎに一人で行かせるのは心配だから送っていくって、私を子供扱いするチャンミンさん。
タクシーを使うから、外を歩くこともないのに。
でも、ちゃんと私のことを思ってくれてることが分かって、私は嬉しかった。
お兄ちゃんみたいに頼れる人。
自分自身の後ろ姿は、肉眼では見ることができないものだ。
チャンミンさんの短く刈り込んだ襟足とか、にょきっと突き出た耳とかを、へぇ、後ろ姿はこんな感じなんだ...って観察できる。
私とチャンミンさんが瓜二つなおかげで、できることだね。
ユンさんとのキスが遠い出来事になってきた。
それくらい、チャンミンさんとリアさんのことが衝撃だった。
バルコニーでのこと。
チャンミンさんに質問したのに、私の欲しい回答は得られなかったし、チャンミンさんの言い訳も聞けなかった。
病院まではあと30分以上はかかるから、時間は十分。
チャンミンさんに、もう一回質問してみよう。
「あ...!
忘れるところだった...」
ユンさんに連絡を入れなくては。
義姉の出産の件で数日間お休みをもらうことは、面接の時に伝えてあったから、許可はもらえれるはずだ。
時刻はもうすぐ午前3時で、ユンさんは寝ている時間だろうからメールを送ることにした。
『夜遅いですので、メールにて失礼します...』とメールを打った。
ユンさんが恋人の背中を抱いて眠っている光景が、ぼわーんと頭に浮かんだのを首を振って消去した。
長文にならないように簡潔に文章を考え考え、送信ボタンを押した私はふうっと息を吐いてシートに深くもたれた。
「民ちゃん?」
窓の景色を眺めていたチャンミンさんが、いつの間にか私の様子を窺っていた。
「上司に連絡をしました。
数日はお仕事を休まなければならないので...」
「そっか...」
「ふう」って深く息を吐いたチャンミンさんの胸が、大きく上下した。
視線を落とすと、チャンミンさんは落ち着きなく膝をとんとんと指で叩いている。
何かイライラすることでもあるのかな...って思っていたら、
「ひ!」
リュックサックを抱えていた私の手に、チャンミンさんの手が重なった。
ビクッと跳ねると、チャンミンさんの手に力がこもった。
隣のチャンミンさんは、じっと視線を前に向けたままだ。
「え...っと?」
チャンミンさんの手の中でもぞもぞと指を動かしていたら、私の指の間にチャンミンさんのが滑り込んできて、ぎゅっと握りしめられた。
こ...これは...『恋人繋ぎ』ではないですか!?
ぐんと体温が上がって、脇の下や手の平にどっと汗がにじみ出たのが分かる。
(つづく)
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