(15)君と暮らした13カ月

 

 

~夏~

 

 

活動量の増えたチャンミンは、ちゃんと見張っていないと危なっかしい。

 

私の腕の中に飛び込もうと全速力で駆けてくる。

 

もし途中で大きな落とし穴があったとしよう。

 

短い脚を高速回転させて、必死過ぎて変な顔をして、まっしぐらだ。

 

そして、私の目の前でチャンミンの姿がふっと消える。

 

落とし穴に落っこちたのだ。

 

「はて...何が起こったのでしょう?」と、きょとんとしているチャンミンを、穴から引きずり出す。

 

「すんません、穴があったとは...見えていませんでした」と、恥ずかしさを隠そうと後ろ脚で耳の後ろを掻きそうだ。

 

その落とし穴がとてもとても深いものだったら...正真正銘、私の目の前で消えてしまったらどうしよう、と怖くなる。

 

 

 

 

ユノさんの家に来て、3度目の夏が訪れた。

 

毛むくじゃらのチャンミンは早くもバテ気味で、台所の(我が家で最も涼しい場所なのだ)タイル張りの床に腹ばいになっている。

 

扇風機がぬるい空気をかきまわしていた。

 

頭がぼうっとして勉強に集中できず、チャンミンに倣って私も床に寝転がる。

 

体温でぬくもったら、ひんやりした場所へと寝返りをうつ。

 

横たわった姿勢で、私の真ん前に陣取るチャンミンのお尻を眺めた。

 

コビトカバみたいなお尻、と思った。

 

チャンミンの尻尾を引っ張ってみると、ここをいじられるのを好まない彼は大儀そうに振り返り、「やめて」と鼻を鳴らした。

 

「ふうん」

 

拗ねてチャンミンから距離をおくと、彼は不安になったのかほふく前進して、私の脇腹にお尻をくっつけて、昼寝の続きに戻る。

 

その箇所が湯たんぽと密着しているかのように熱かったが、私は我慢する。

 

 

 

 

日中は暑すぎて外遊びは出来ないけれど、代わりにチャンミンに水浴びをさせた。

 

ホースの水をチャンミンに浴びせた時の、彼の狂ったようなはしゃぎっぷりといったら!

 

ホースからほとばしる水を口に受け、がぶがぶと噛みつくのがチャンミンの好きな遊びだった。

 

「もっとやって」としつこくせがまれて、チャンミンの気が済むまで彼の遊びに付き合ってあげる。

 

地面を濡らす水は、からからに乾いて白茶けた地面に沁み込み、水たまりができる間もなく蒸発してゆく。

 

チャンミンの身震いがダイナミック過ぎるせいで、水浴びをしているのは彼なのに、私のTシャツも短パンも濡れてしまっていた。

 

太陽光を受けて、水しぶきがミニチュアの虹を作る。

 

真夏の濃い青空が映り込んだ、チャンミンのみずみずしい瞳に話しかける。

 

「ねえ。

チャンミンには虹が見える?」

 

彼の瞳孔がとらえた映像に色彩はあるのか?

 

モノクロームの世界なのか、カラフルな世界なのか。

 

こんな大きな眼をしているんだもの。

 

私の肉体を透かした先、草原に散らばる白い点々...ヒツジたちが見えていそうだ。

 

私が見ることができないもの...例えば、未来...も見ることができるかもしれない。

 

チャンミンは未来よりも、水遊びが楽しい今この時にしか興味がないのだろうな。

 

過去や未来に意識を集中している時、私の眼はここではないどこかを彷徨っている。

 

そしてその隙にチャンミンを見失ってしまう。

 

ぞっとした思いを振り払おうと首を振ったら、くらりと眩暈がした。

 

「お前の眼にはどう映っているの?」

 

「あなたと同じものを見ていますよ」

 

私の耳と心がキャッチしたチャンミンの言葉は、私の頭が都合よく変換したものなんだろう。

 

「さあ、もっと僕に水をかけてください」

 

 

 

 

私たちの家の背後、雑木林を抜けたところに別荘地がある。

 

夏の間、裕福な都会っこが避暑を求めて数週間滞在する。

 

標高が高いせいで太陽との距離が近く感じられるこの地、それでも木陰に入ると涼しい。

 

源流の小川は、川底の小石の色まで見分けられるほど透明で冷たく、腕を数分も浸していると痺れてくる。

 

私ひとりだけなら、別荘地から下流へ数十メートルくだった場所で水泳を楽しめた。

 

流れの一か所に深い淵があり、足の指やすねをぶつけて痛い思いをする心配なく、のびのびと手足を伸ばせた。

 

でも、今年の私は二つの理由でそれが出来ずにいた。

 

ひとつ目はもちろん、チャンミンの存在だ。

 

水浴びは好きだけど、チャンミンは泳ぐことができるのか未確認だった。

 

本人は泳ぎの達人のつもりでいて、水中に飛び込んで初めて、自分が泳げないことに気付く。

 

プラムの木の時は、人の目が届く前庭で、ユノさんに助けてもらえることができた。

 

山深いここでは、チャンミンを助けられるのは私だけだ。

 

平泳ぎと潜水しかできない痩せっぽちの子供が、おぼれまいと大暴れするチャンミンを川岸へ連れていけるだろうか。

 

チャンミンは生命の塊で、彼の全身は活きのよい魚のように躍動的なのだ。

 

肉や野菜の焼ける匂いにつられて上流へ駆けていってしまう恐れもある。

 

もうひとつの理由は、2年前に私が起こした出来事があったからだ。

 

思い出す度、真冬の川に突き落とされ凍り付く感覚を覚える。

 

私の顔はより醜く歪み、身体の表面はかあっと熱いのに、心も内臓も凍結してゆく。

 

...でも、チャンミンを信用して連れていってもいいかな、と思い直してもいた。

 

チャンミンには笑っていて欲しいから。

 

 

(つづく)

 

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