(22)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

ユノさんと夜の散歩をしていた。

 

満月の夜で懐中電灯は不要だった。

 

夜目がきくチャンミンは、ずっと前方へ走っていったかと思うと、引き返してきて私たちの足元にまとわりつく遊びを繰り返している。

 

リリリ、リリリと鈴虫の鳴き声も、首元を撫ぜる夜気も涼やかだった。

 

月光に照らされて濃紺色の影が、ユノさんの顔の凹凸を浮かび上がらせている。

 

逞しいイメージしかなかったユノさんだけど、実はとても女性的で優しい顔をしているのだ。

 

「チャンミンは何歳まで生きるの?」

 

チャンミンの存在感が増すごとに、膨らんでいった不安だった。

 

「チャンミンの心臓の音を聞いてごらん。

拍動が早ければ、人間より早く死ぬだろうね」

 

チャンミンを呼びよせ、彼の胸に耳を押し当てた。

 

運動の最中だったから当然だけど、ドクドクと鼓動が早かった。

 

私の頭蓋骨にその振動が伝わってくるほど、力強い拍動だった。

 

これまで何度抱きしめただろう、チャンミンの胸に頬ずりした時に感じとった鼓動を思い出してみた。

 

私と同じくらいだった...多分。

 

「チャンミンは、人間でいうと何歳くらいかな?」

 

「そうだなぁ。

小学生くらいかな?」

 

「へぇ...。

じゃあ1年で12歳くらい?」

 

「動きがまだまだ子供っぽいから、それくらいだろうね。

好奇心旺盛だし、怖いもの知らずだし」

 

「そうだねぇ」

 

寿命の話をした2週間後のことだった。

 

 

 

チャンミンには苦手なものがたくさんあった。

 

押すとピーピー音が鳴るゴム製のボール(タミーの玩具)、ユノさんの怒った顔、雷、そしてイカ...。

 

 

ユノさんが活きのいいイカを手に入れてきた日。

 

複雑に調理せずシンプルに、丸ごとを軽く炙って食べることにした。

 

それを食卓に運ぶ途中、ラグの裾に足を引っかけてしまった。

 

丸焼きイカが弧を描いた落下点が、大きく開いて待ち構えていたチャンミンの口だったのだ。

 

パクっと、見事にチャンミンの口の中に着地した。

 

空を飛んできたご馳走にチャンミンは、私から奪い返される前にと、よく噛みもせず飲み込んでしまった。

 

チャンミンは食い意地が張っているのだ。

 

「僕は悪くないですよ。

これが僕の口をめがけて飛んできたのです」

 

「チャンミンの馬鹿!」

 

イカの余りはまだあったため、もう一度焼かないと、と台所へと引き返そうとした時だった。

 

「ぐへっ」

 

おかしな音に振り向くと、チャンミンは背中を痙攣させ、「かっかっ」と喉を鳴らしていた。

 

私は駆け寄り、チャンミンの口吻を上下に開いて、喉の奥を覗き込んだ。

 

白い塊が詰まっている。

 

チャンミンは「げぇげぇ」えずいている。

 

「ユノさーん!」

 

慌てふためいてユノさんを呼んだ。

 

入浴中だったユノさんは、腰にタオルを巻いた姿で駆けつけた。

 

息ができないため、チャンミンの舌がみるみるうちに白くなっていった。

 

ユノさんはチャンミンの後ろ脚をつかむと、チャンミンを逆さづりにした。

 

その荒々しさに、私は固唾をのんで見守った。

 

そして、チャンミンの背中を数度叩いた。

 

歯型がひとつだけついたイカの丸焼きが、べたっと床に落ちた。

 

...このエピソードをきっかけに、チャンミンはイカが嫌いになったのだ。

 

チャンミンは食いしん坊だから、食べ物がらみの失敗談がたくさんある。

 

 

 

 

私はチャンミンを街に連れていったことがないので、汽車の音や人混み、豚が丸ごとぶらさがった肉屋...きっと嫌いになるだろうと思う。

 

街、人が沢山いるところ...私が苦手な場所。

 

私とユノさん、配達の人たち...これがチャンミンが出会ったことがある人間の全てだ。

 

それでいいのかな、と思うようになった。

 

チャンミンが大好きだから、彼をいろんなところに連れていってあげたい。

 

海も見せてあげたい...私も海へは行ったことがないから、ユノさんに連れて行ってもらおう。

 

でも、チャンミンは珍獣だから、人々から好奇の目で見られてしまう。

 

ユノさんのトラックの窓から、眺めさせるのもいいアイデアかもしれない。

 

大きな耳はタオルで頬かむりして隠すのだ。

 

その姿を想像し、滑稽で可愛らしくて吹き出してしまった。

 

笑っている場合じゃないことにハッとして、周囲を見回したけど、居間にはチャンミンとタミーがいるだけだ。

 

ユノさんは仕事で留守だった。

 

ここ2、3日の天候は異常だった。

 

9月だというのに、昨日までは真夏のような暑さだった。

 

一転、今日はカーディガンを引っ張り出さないといけないほどの肌寒さだった。

 

古毛布を敷いた上にタミーが横たわっていた。

 

健康な私でも風邪をひかねない気温差で、おじいさん犬のタミーの老体は特に堪えたのだ。

 

「そっと寝かせておきなさい」と、ユノさんは言い置いて出勤していった。

 

タミーの鼻先に、水の入ったボウルを近づけてやると、億劫そうにやっとのことで首を持ち上げ、水を飲んだ。

 

食事は今朝、ユノさんが与えていたから、夕方まではやらなくてもいいが、欲しがった時のために、パンを牛乳でふやかしておいた。

 

タミーの首を揉んでやっていると、チャンミンも真似をして背中を前足でふにふにと踏んだ。

 

チャンミンが赤ちゃんだったとき、私の手首をおっぱいのつもりでふにふに揉んでいた頃のことが思い出された。

 

時の経過を楽しむ伸び盛りのチャンミンに対し、死に近づいていく年ごろにさしかかたタミーの場合は、時の経過を恐れるようになる。

 

犬の寿命は15年前後だったはずだ...タミーはまだ13歳だもの、大丈夫。

 

「僕にできることがあったら何でも申しつけてください」と私の足元にまとわりつき、何も頼まれごとがないと知ると、タミーのお腹にくるまるように横になった。

 

タミーの呼吸はとてもゆっくりで、寝顔はおだやかだった。

 

私の心は不安感でいっぱいだった。

 

このままタミーが、ユノさんが帰宅する前に死んでしまうかもしれない恐怖に憑りつかれていた。

 

タミーはユノさんの宝物だ。

 

ユノさんの家で暮らし始めた2年前からタミーはおじいさんで、穏やかな性格で私に対し一度も吠えたことがない。

 

犬といえば、狂暴な野犬しか知らなかった私は驚いた。

 

タミーにとってユノさんは絶対的な存在なのだ...ユノさんを見つめる眼でひしひしと伝わってきた。

 

ユノさんが出かけてまだ2時間しか経っていなかった。

 

この家には電話はない。

 

「よし!」

 

リュックサックを取ってきて、お茶を入れた魔法瓶とビスケット、そしてノートと鉛筆を詰めた。

 

ジャンパーを羽織り、チャンミンの名前を呼んだ。

 

 

(つづく)

 

 

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