~秋~
街までの5kmくらいどうってことない。
チャンミンと草原を毎日のように駆けまわっていたのだから、脚も心臓も鍛えられた。
「2時間くらいで戻るからね」と眠るタミーの頭を撫ぜた。
玄関ドアのカギを締め、つばひろ帽子をかぶった私はチャンミンを連れて出発した。
時折吹く風は冷たく、帽子が飛ばされないようあご紐を締め直した。
眩しすぎて見上げることができなかった夏空は、いつのまにか遠く高く、澄んだ青をしている。
太陽はまだ東の方にあり、頑張ればお昼までに到着できるだろう。
春先に毛刈りをした羊たちは、この頃にはふわふわの毛に包まれ、思い思いに草を食んでいる。
草木はまだ青々としているけれど、冬に備えて刈った牧草を乾かす人々、穂草の先が黄金色に色づき始めていた。
草原の小路を私とチャンミンは、一歩一歩確かな足取りで歩いてゆく。
今日のチャンミンはよそ見も寄り道もしない。
私の隣を、短い四肢をちょこちょこ素早く動かし、その表情は真剣そのものだった。
肩で風を切り並んで歩く私たちは、目的を共有しあう同士だ。
チャンミンがいるからだ。
冬の頃は、小さな赤ん坊だったのに。
私の手からお乳を飲んでいたのに。
いつしか頼もしい相棒になっていた。
チャンミンが一緒ならば、私は安心して外出が出来る。
かつてチャンミンとタミーが留守番をしていた木柵までたどり着き、私は後ろを振り返った。
風に撫ぜられた草原の穂先が、ざわざわと乾いた音をたてていた。
遠くの1点に、雑木林を背負った私たちの小さな家がある。
赤い三角屋根、水色の壁は先週ユノさんとペンキを塗ったばかり。
スニーカーの紐を結び直し、「よし!」と自分自身に喝を入れた。
私は行く手に視線を戻した。
動物園へ行くには街を縦断しなければいけない。
早い鼓動を鎮めようと、大きく深呼吸をした。
街への道はゆるやかな下り坂で、途中でアスファルト敷きになり、そして道幅も広くなってきた。
そろそろ、チャンミンを隠さないといけない。
団扇のような耳と子豚のような肌色の鼻、ロリスのような大きな眼、白と茶と黒と黄金色のまだら模様、尻尾は短く、四肢はダックスフンドのように短くて、後ろ脚はひづめだ。
世の中の動物たちの寄せ集めのような、不格好なチャンミン。
それでもパーツのひとつひとつに注目すると、どれもが実用的でとても美しいと思っている。
羽が生え始めたとしても、私は驚かない。
もしかしたらチャンミンは、宇宙からやってきたエイリアンなんじゃないかと空想することもあった。
「チャンミン、おいで」
私はリュックサックにチャンミンを入れた。
スイカ2個分のチャンミンは重く、ずしりと肩ひもが食い込んだ。
チャンミンはおデブさんだけど、運動量が多いからその身体は筋肉で引き締まっていて、脂肪でぶよぶよではないのだ。
「人が来たら隠れているんだよ?」
「了解です」
チャンミンはリュックサックの口から、頭をひょこっと出している。
初めて見る景色に、「うわぁぁ」と感嘆の声を心の中で漏らしているだろうな。
タミーのことがなければ、二人だけで街へ出かけるなんて決してなかったことだった。
チャンミンは私が歩きやすいよう、じっとしていた。
ユノさんにクッキーを買ってもらったカフェの前まで到達した。
時折自動車が通り過ぎ、エンジン音をいち早く聞き取ったチャンミンは、リュックサックの中に頭を引っ込めた。
耳が飛び出しているかもしれない。
私はカフェの脇に隠れ、一旦チャンミンを外に出した。
チャンミンの両耳をタオルで包み隠し、顎下で縛った。
以前想像した通り、頬かむりしたチャンミンが滑稽で可愛らしくて、ぷっと吹き出してしまった。
「そんなに変ですか?」
「ううん、とっても可愛いよ」
「喉が渇きました」
「ひと休憩しようか?」
私たちは砂糖入りの甘くて熱いお茶を飲み、ビスケットを半分こして食べた。
「行くよ。
急がないと」
チャンミンをリュックサックに戻し、私は先を急ぐ。
冷たい空気も、歩きどおしで温まった身体にはちょうどよかった。
・
カフェを過ぎたあたりで道は二股に分かれていて、そこを真っ直ぐ進む。
確か、ユノさんは動物園までの道順をそう話していたような覚えがある。
自働車修理工場の前を通り過ぎた辺りから街が始まる。
通りを歩く人も多くなり、さまざまな店が立ち並ぶエリアに差し掛かった。
私は帽子を深くかぶり直し、うつむいて自分のスニーカーだけを見て歩いた。
花屋、八百屋、文房具店、衣料品店、クリーニング屋、時計屋、古本屋...。
ショウウィンドウを見ないように、石畳だけを見て歩いた。
肉屋の軒先に、豚の後ろ脚がぶら下がり、切り落とされた頭が3体分並んでいた。
私は顔を背け、小走りして通り過ぎた。
緊張と羞恥のあまり、総菜屋の揚げ物の匂いで胸がむかついた。
すれ違う人々や、通りの向こうの人さえ皆、私に注目している気がしてならなかった。
同居人に怪我をさせ、都会から来た少年を川に突き落とした醜い子供だって。
学校にも行っていなくて、同性愛者と暮らしているって。
私の両親の噂もここまで伝わっているだろう。
人は不幸の匂いがする話が大好きだから。
300mばかりの間だ、我慢しよう。
リュックサックの肩ひもをぎゅっと握りしめた。
手前に看板があっただろうけど、下を向いていたせいで見逃したのだ。
「...えっと、ここを曲がるんだっけ?」
この交差点で左に曲がるのか、もうひとつ向こうなのか分からなかった。
私はユノさんの動物園に行ったことがない。
(つづく)
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