~秋~
その日、私とチャンミンは小さな喧嘩をした。
チャンミンが腹を立てるのも仕方がないけれど、彼を連れて街へ出るのは無理だったのだ。
ユノさんから貰った小遣いで本を買いに行こう、と思い立った。
あの古本屋のおじさんの約束をまだ果たしていなかったからだ。
ユノさんは担当する動物が出産間際だからと、ここ数日間ほとんど泊まり込み状態だったため、彼に車を出してもらうことは出来そうにない。
明日から雪が降るでしょうと、ラジオから流れた天気予報。
さらに、私は風邪が治ったばかりで、重いチャンミンを背負って歩くだけの体力がなかった。
喧嘩の種を作ってしまったのは、この日を選んでしまった私なのだ。
チャンミンは大はしゃぎで、出掛ける用意をする私の周囲をぐるぐる走り回っていた。
「あなたは留守番なの。
連れていけないの」
そう何度も言ったのに、チャンミンは聞こえないふりをしている。
草原の小路を、チャンミンはスキップして私を先導した。
「チャンミン、ごめん。
今日のあなたは留守番なの」
チャンミンは「留守番」の意味が分からないと、小首を傾げた。
輝かせた眼で私を見上げるものだから、連れていこうか一瞬迷ったけれど、やっぱりチャンミンを背負って歩くのはしんどそうだった。
「待っててね。
2時間で戻るから。
お土産も買ってくるよ」
草原の端の木柵の前で、私はチャンミンに言い聞かせた。
チャンミンはがくっと頭を落とし、「ごめんね」の私の言葉にも振り向かず、とぼとぼと元来た道を帰っていった。
・
「ただいま、チャンミン」
ポーチにいたャンミンに声をかけたけれど、彼は眠ったままだった。
草原の向こうに私の姿を見つけていたくせに、ずっと昼寝をしているふりをしている。
「クッキーだよ。
牛乳も飲む?」
チャンミンは顔を背けたままだった。
頭を撫ぜようとすると、首を振っていやいやする。
「勝手に怒っていなさい!」
ドアをバタン、と大きな音をたてて閉めた直後、チャンミンが怒っても仕方がないか、と反省した。
チャンミンのご機嫌をとろうと、前庭のひまわりから採取した種を、フライパンで煎ってあげることにした。
「チャンミ~ン!
出来たよ~」
香ばしく煎られたひまわりの種を全部、チャンミンのボウルに入れた。
背後から近づく、カチカチいう爪の音が一向に聞こえてこない。
「チャンミンは相当へそを曲げているんだな、仕方がない子だ」と、チャンミンが隠れていそうなところを探しまわった。
洗濯機の中、ユノさんの毛布の下、本棚の上にはいなかった。
「どこにいったんだろ...」
外に出て、ポーチの下や裏庭の物置小屋も覗いてみた。
ポーチに置いたクッキーも牛乳も手付かずだった。
「強情っぱりなんだから!」
きっと草原を走り回っているんだな、と私はため息をつき、家の中に戻った。
そして、古本屋で買った本を手にラグに寝っ転がった。
私には背伸びし過ぎた小説で、難しい単語が出る度辞書で調べ調べながらの読書で、なかなか先に進めない。
それでも、恋を知らない私はドキドキしながら、夢中になって読みふけっていた。
手元が薄暗くなってきてようやく、日が翳りかける時刻だと知った。
「いけない!」
夕飯の用意をしないと、薪を運んでおかないと、洗濯物を取り込まないと、と、やることリストは沢山ある。
家の中はとても静かだ。
ここではたと気付いた。
チャンミンがいない!
食いしん坊のチャンミンが夕飯の時間を忘れるはずがないし、薄暗くなるまで一人遊びをするには、彼は寂しがり屋過ぎるのだ。
草原の彼方を目をこらしてみたけれど、チャンミンの目印である白いお尻はない。
気の早い下弦の月が青白く、東の空に浮かんでいた。
「チャンミ~ン」
遠く離れ過ぎていて心の声が聞こえないんだ。
こんな時、喉がつぶれるほど大声を出せたらと、自分が情けなくなった。
チャンミンは雑木林に行ってしまったのかもしれない。
怒りが強すぎて、私の顔なんて見たくないんだ。
足元も木々の枝も黒く塗りつぶされていて、しんと静まり返っている。
野生動物たちが活動するには時間は早いようで、ガサガサ笹を揺らす音もしない。
私に心配してもらいたかったとしたら?
それで無茶をしようと、いつもよりも山深いところまで足を踏み入れて、そして迷子になったんだ。
それとも、沢に落ちていたとしたら?
ぞっとした。
「...どうしよう」
むくむく膨らんでくる不安感で、胸が破裂しそうになった。
「...チャンミン...」
私にでき得る限り、チャンミンを探した。
懐中電灯を手に、ぐるりと草原を回ってみた。
足元は真っ暗で、羊のウンチを踏んでしまっていようと構わなかった。
「チャンミン...馬鹿」
死にものぐるいだった。
林を抜け別荘地の通りまで上がり、厳重に戸締りをした別荘の敷地内を1軒1軒見て回った。
「チャンミーン!」
ここでもうひとつの可能性に行き当たった。
故郷に帰ったんだ。
私のことが嫌いになって、故郷に帰ってしまおうと思い立ったんだ。
ユノさんだ!
ユノさんなら何とかしてくれる!
私はこぼれ落ちそうな涙をぐっとこぶしで拭った。
斜面をすべり落ちるように下った。
木の根につまずいて3度も転んだ。
顎と胸を強く打ち、顔が落ち葉に埋もれた。
怪我をしたってどうでもいい、今すぐユノさんに助けてもらわないと、チャンミンがどこかへ行ってしまう。
チャンミンの嘘つき。
「どこにも行きませんよ」って言っていたのに。
・
ユノさんは直ぐに、見当がついたようだった。
チャンミンは見つかった。
罠にかかっていた。
鶏小屋を襲うキツネを捕らえるトラバサミに、足を挟まれていたのだ。
(つづく)
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