(3)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

「ミンミン!」

 

「今、起きたところ!」

 

ユノさんは私のことを『ミンミン』と呼ぶ。

 

蝉の鳴き声みたいであまり好きじゃない。

 

山のふもとに建つこの家に、初めて訪れたのは夏の盛りの頃だった。

 

蝉の声が頭の中でじゃんじゃんと鳴り響き、耳鳴りを疑う程のやかましさだった。

 

初めて会ったこの夏の日を記念して、ユノさんはふざけ半分で私を「ミンミン」と呼び、いつしかその呼び名が定着したのだ。

 

返事をしないとユノさんは、「ミンミンミンミン」とずーっと呼び続けるから、私は一回で応答するようにしている。

 

私はチャンミンを抱いて、寝室を出た。

 

 

「チャンミンにミルクをあげよう」

 

早起きのユノさんは既につなぎ姿で、朝食も終えていた。

 

飼育員の出勤時間は早いのだ。

 

私の為にテーブルには、牛乳とパン、ゆで卵が用意されていた。

 

餌をねだるタミーがユノさんの足元で、伏せの姿勢をとっている。

 

ストーブの上にミルクパンがあるのを目にし、「チャンミンは牛乳を飲むの?」と尋ねた。

 

「牛乳はお腹を壊したんだ。

ヤギのミルクがチャンミンの胃袋に合うみたいだ。

園からヤギ乳をもらってきたよ...冷蔵庫に入れてある。

それをひと肌に温めてあげるといい」

 

「あ!」

 

お腹の辺りがジワリと温かくなり、抱いたチャンミンから身を離すと...やっぱり!

 

パジャマがぐっしょり濡れていた。

 

「チャンミンがお漏らしした!」

 

「ははは。

そういえば昨夜からおしっこをしていなかったからね」

 

「トイレはどうしよう?

トイレの場所を覚えるかなぁ?」

 

「チャンミンならすぐに覚えるだろうよ。

頭が大きいから賢いだろうね。

でも、この子は未だ赤ちゃんだから、当分は無理だろう」

 

「おしめをすればいいかな?」

 

「それじゃあ、お尻が蒸れてしまって可哀想だ。

ぐるぐる歩き回り始めて、床をくんくん嗅ぎ出したら、おしっこのサインだ。

腰を落としたらウンチのサインだ。

チャンミンの様子をよく見ていれば、分かるよ」

 

「犬みたいだね」

 

ユノさんは私とチャンミンの頭を撫ぜると、弁当の入ったバッグを肩にかけた。

 

学校に通えない私は一日、家にいるから、チャンミンのお世話はちゃんとみられるのだ。

 

「いってらっしゃい」

 

ユノさんはとても背が高く、私の頭は彼の胸のあたりにある。

 

ユノさんが乗った真っ赤なトラックが見えなくなるまで、私は見送った。

 

チャンミンと二人きりの一日が始まった。

(タミーもいるけれど、彼は放っておいても大丈夫なのだ)

 

 

さて、どうやってチャンミンにミルクをあげようか、と考え込んでいた。

 

お皿に入れたミルクを、舌で飲むにはまだまだ幼過ぎるようにみえる。

 

ユノさんがミルクの与え方を教えてくれなかったのは、敢えてのことだ。

 

私はチャンミンのママなのだ。

 

警戒心が強いと聞かされていたけれど、実際のチャンミンは怖いもの知らずのようだ。

 

床にねそべったタミーの匂いを嗅いでいる。

 

チャンミンの黄金色の尻尾は太く短く、毛先だけが白い。

 

緊張と好奇心で、ぴんと水平に伸ばしている。

 

「チャンミン、おいで」

 

名前を呼ぶとパッと振り向いたところをみると、ちゃんと自分の名前を認識しているようだ。

 

チャンミンは短い脚でよちよちと、両手を広げ待つ私の元へと向かってくる。

 

短い尻尾をぷりぷり振っている。

 

チャンミンの爪が木の床を、カチカチと鳴らしていた。

 

「お腹が空いたでしょう?」

 

私の腕の中におさまったチャンミンは、肥満したモルモットより大きく、成猫より小さい。

 

太い脚は大きくなる証拠だと、以前ユノさんが教えてくれた。

 

太ももの間にチャンミンを後ろ向きに抱きかかえ、ミルクパンに浸した指をチャンミンの鼻先に近づけた。

 

間髪入れずチャンミンは、私の人差し指を咥え、ちゅうちゅうと吸った。

 

その吸引力に、よほどお腹が空いていたんだね。

 

ミルクで濡れた指を、何度もチャンミンに吸わせた。

 

チャンミンの2本の短い前脚は、私の手首を抱えている。

 

チャンミンの上顎のくぼみに私の指はぴったりフィットしていた。

 

もっともっと欲しいと口をパクパクさせている。

 

こんなやり方じゃ、お腹いっぱいにミルクを与えられない。

 

チャンミンをいったん床に下ろし、台所の戸棚を漁った。

 

「確かこの辺に...あった!」

 

目当てのものは注射器だった。

 

赤ちゃん動物を一時的に預かった際、ユノさんが使っていたものだった。

 

ミルクパンのミルクを吸い上げ、チャンミンに咥えさせた。

 

チャンミンのペースに合わせて、慎重にピストンを押していく。

 

ちゅっちゅちゅっちゅと一心不乱にミルクを吸っている。

 

注射器のミルクはあっという間に空になった。

 

チャンミンは私の手首を小さな足でふにふにと揉んでいる。

 

母親のおっぱいだと思ってるんだね。

 

あらたにミルクで満たされた注射器を、口元に持っていく。

 

すかさずチャンミンは咥えた。

 

これを何度も繰り返した。

 

吸いながら、チャンミンの眼はまぶたで半分覆われていった。

 

まぶたが落ちた途端、ハッとして眼を開ける。

 

ミルクは飲みたいし眠いし、その狭間でチャンミンは戦っているようだった。

 

ミルクパンが空になる頃には、チャンミンは完全に眠ってしまった。

 

長い長いまつ毛が震えていた。

 

そうだよね、チャンミンは赤ちゃんだから。

 

お腹がいっぱいになったら眠くなるよね。

 

脱力した身体を私に預け、健やかに眠るチャンミンが可愛いと思った。

 

 

本棚から動物図鑑を抜き取った。

 

これはユノさんのもので、子供向けではない専門書に近いものだった。

 

チャンミンと似た特徴の動物を探して、何ページもめくってみてもどこにも見当たらなかった。

 

私の膝の上でお腹を見せて眠っているチャンミン。

 

ピンク色のお腹は産毛程度しか生えておらず、呼吸に合わせて上下している。

 

「あ...!」

 

どうして今まで確かめてみようと思わなかったのか。

 

お腹の下あたりのつつましやかな突起を確認し、チャンミンは雄だと知った。

 

 

(つづく)

 

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