(32)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

春だったか夏だったか秋だったか...冬じゃなかったのは確かだ。

 

ユノさんに引き取られたのが盛夏の頃だったから、初夏だった可能性が高いかもしれない。

 

記憶がおぼろげで、季節感が曖昧だった。

 

ある日突然、施設に預けられていた私を両親が迎えに来た。

 

病院に入院しているはずの母親の登場に、まず驚いた。

 

そして、何年も前に行方をくらましていた父親も一緒にいて、私は喜ぶよりも困惑した。

 

両親は私たち三人の住まいであるアパートへと、私を伴った。

 

長らく留守にしていたせいで、部屋の中はほこりとカビの匂いがした。

 

私たちが部屋に入るなり父親は、フライパンを叩きつけて、ドアノブを叩き落としてしまった。

 

換気のために窓を開けるどころか、窓々は木の板で塞がれていた。

 

私を迎えに行く前に、両親はこの部屋の用意を済ませていたようだ。

 

その理由が分からなかった。

 

彼らは何かを計画している。

 

そして父親はバッグの中から、白い錠剤が詰まった瓶を3本取り出した。

 

その中身を数回に分けて、水で流し込みながら飲んだ。

 

飲みなさいと、白い錠剤を手の平に山盛り握らされた。

 

父親は「ラムネだよ」と言っていたけど、それは嘘だ。

 

私は一旦は口に含んだそれを、彼らに背を向け部屋の隅に吐き出した。

 

初めて目にする両親の様子が気味悪かった。

 

飲み干した後、彼らはベッドへと私の手を引き、私を挟んで横になった。

 

「お父さんはお前たちを捨てたくて家を出たのではないよ」

 

「...手紙ひとつ寄こさずに?」

 

「手紙を出せない訳があったんだよ」

 

「借金取り?

それとも、牢屋に入っていたの?」

 

父親がいなくなったのは私が5歳か6歳の頃で、事情は全く分からなかった。

 

「お父さんはお前たちのことを忘れたことは、1秒もない」

 

「ねぇ、お母さん。

病気は治ったの?」

 

「治ったわ」と母親は答えた。

 

二人して、私の名を繰り返し呼んで髪を撫ぜた。

 

その回数はこの先、彼らから呼ばれるだろう一生分と、呼べずじまいだったこれまでの分を埋め合わせるに匹敵しただろう。

 

彼らにとりたてて可愛がられた記憶がないだけに、怖かった。

 

3人揃って暮らした記憶が遠すぎた。

 

私の両隣りでゆっくりと上下していた胸の動きも、やがて止まってしまった。

 

「お父さん、お母さん」と呼んだ声は、永遠に彼らに届かない。

 

家じゅうの窓に頑丈な板が打ちつけてあり、子供の力ではどうしようもなかった。

 

窓には新聞紙が貼られていて、それを透かして差し込む日光が唯一の照明だった。

 

彼らは白い骨になってしまうまで、誰も中に入れる気などないのだ。

 

食糧庫も冷蔵庫も当然、空っぽだった。

 

唯一、グミの袋が見つかった。

 

1粒1粒大切に噛みしめた。

 

蛇口をひねると、幸い水は出た。

 

母親が私を呼んだ。

 

後になって振り返ると、この時点での母親が声を出すことはあり得なかった。

 

既に彼女は溶けかけていたのだから。

 

耳をすましていないと聞き逃してしまう微かな声で、母親は私を呼んだ。

 

彼女の言葉を聞きとろうと、私は顔を近づけた。

 

私の名を呼ぶ彼女の最後の吐息が、私の鼻腔を刺激した。

 

生暖かいそれはぶわりと私の頬を撫ぜ、湿らせた。

 

鼻がもげそうな匂いに、私の顔は腐ってしまった。

 

両親の顔も身体も溶けてゆく。

 

鼻がもげそうな吐息で囁かれて、私の名前も腐ってしまった。

 

私は10日後に救出された。

 

刑期を終えた父親と余命間際の母親...子供だけ助かった。

 

いかにもな不幸なストーリーで、この一件はしばらくの間、巷を騒がす事件となった。

 

アパートの一室で起きたことを事細かに語る術を、私は無くしていた。

 

事件の真相など私にはどうでもいいことだった。

 

そもそも、事実を何倍にも膨らませ、こしらえられた作り話だったかもしれない。

 

新聞もラジオのニュースも噂話も全部、私の目と耳を素通りしていった。

 

さらに2週間後、遠い親戚筋にあたる者だとユノさんが名乗り出てきた。

 

正常な子供だったら、大きな傷を心に負い、トラウマとなって何年も苦しむ事案だと思う。

 

両親を亡くして悲しいことよりも、彼らによって酷い目に合わされた恨みの方が大きかった。

 

悲しくもなんともない、ひとりぼっちになって寂しいとも思わない。

 

この感情の処理は、13歳の私にはまだまだ手におえない難しい課題だ。

 

恐らく私の心はとても、ひねくれていて普通じゃないのだ。

 

「本当に」悲しくないのだ。

 

悲しくならない自分が悲しかった。

 

あの事件以来、初めてかもしれない...鮮明に当時のことが頭に蘇ったのは。

 

 

 

 

膝の上に乗せていたチャンミンを目の高さまで持ち上げ、彼の鼻と私の鼻とをこすりつけた。

 

チャンミンの鼻はふわふわに柔らかく、常に潤んでいて、ひんやりと冷たい。

 

「ねぇ、チャンミン。

私って心が冷たいのかなぁ?」

 

チャンミンは首を傾げた。

 

「悲しまないといけない、って誰が決めたのです?」

 

「...えっと...世の中の人みんな」

 

「その決まりごとに沿えなかったから、あなたは冷たい人間なんですか?」

 

チャンミンは私から目を反らさない。

 

「...冷たい人間なんだと思う。

二人がいなくなっても...私、平気なんだもの」

 

「悲しい気持ちにお手本があるのなら、反対に嬉しい気持ちだったらどうです?」

 

「嬉しい気持ち...?」

 

チャンミンは長い舌で、私の鼻先をちょんちょんとつついた。

 

「宝くじに当たったとします。

賞金がすごいのです。

大抵の人は大喜びです。

でも中には、無感動の人もいるでしょうし、絶望する人もひょっとしたらいるかもしれません」

 

「そんな人っているかな?

私だったら嬉しいな」

 

「ほらね。

絶望する人を想像できないでしょう?

でも、そういう人もちゃんと存在するし、喜べないからといって責められないでしょう」

 

「そうだね」

 

「宝くじとご両親の死を比較するのは乱暴でしたね。

あなたの場合は、悲しむべきものがご両親の死であるから、余計に縛られてしまっているのです」

 

チャンミンの言うことは難しすぎたし、実は一度聞いたことがある話だった。

 

「僕が見るところ、あなたは繊細なようで、鈍感でタフなところがあるようですね」

 

「繊細で鈍感?」

 

「はい。

両方あるから、心とは複雑で面白いのです。

あなたはあなたのままでいてよろしいのです」

 

「チャンミンったら、ユノさんと全くおんなじことを言うのね」

 

以前は理解できなかったユノさんの話が、今は分かったような分からないような...でも、ニュアンスは理解できたような気がする。

 

「凄いねぇ。

チャンミンは私の先生みたいだね」

 

チャンミンは得意げに、つんと顎を上げていた。

 

 

(つづく)

 

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