~冬~
玄関のドアをカリカリ引っかいたら、おしっこの合図だ。
私はドアを開けて、チャンミンを外へと出してやる。
温かい室内にひゅっと寒風が吹き込んだ。
外は闇に包まれているのに、ほの明るいのは、雪原がわずかな星の光を反射して発光しているからだ。
ドア脇に吊るした温度計は氷点下10度を示している。
ユノさんの大きな足跡は、夕方から降り出した雪で隠れてしまっていた。
小さな足跡を点々と付けながら、チャンミンはポーチの端っこまでよちよちと歩いていく。
目的地まで抱き上げていってあげたいのを、ぐっと堪える。
チャンミンの鼻息が白い。
ガス火にかけたフライパンの中身を気にしながら、チャンミンの用が済むのをじりじりと待つ。
薪火が温めた部屋が冷えていくのも構わず、私はドアを開けたままだ。
この子はトイレを覚えてから半日も経っていないのだ。
ポーチは小さなチャンミンにとって広大で未知なる地。
数センチの雪も、チャンミンにとっては脚の付け根まで達する深さなのだ。
階段から転げ落ちるかもしれないし、辺りをうろつく野犬に襲われるかもしれない。
そして何より、ママである私に捨てられたと絶望してしまうかもしれない。
お尻を落とした姿勢のバランスをとろうと、後ろ脚を踏ん張っている。
膀胱を空っぽにしたチャンミンは、雪に脚をとられながら私の方へ一目散に(本人はそのつもり)駆けてくる。
差し伸ばした私の両手の間が、チャンミンのゴール地点だ。
「いい子いい子」と頬ずりせずにはいられない。
バターが焦げる匂いに慌てた私は、チャンミンを抱き上げたまま台所へ走った。
今夜のメニューは、ユノさんが下処理を済ませておいた魚にパン粉をつけ、バターで焼いたものだ。
私の仕事は夕飯の用意で、ユノさんは今、入浴中だった。
身体に染みついたケモノの匂いを落としてから、食卓につくのがユノさんの日課なのだ。
仕事中のユノさんを、実は見たことがない。
沢山の動物と触れ合えていいなぁと、動物好きたちは憧れるだろう。
実際は、単なる動物好きだけじゃ務まらない、覚悟のいる仕事なんだろうと...ユノさんの仕事ぶりを見たことはなくても、そうじゃないかな、と思っている。
想像してみた。
早朝。
ユノさんは、野菜くずと乾草を積んだ荷車を押している。
屋外の運動場は、前夜からの雪が降り積もって足跡ひとつない。
アルパカたちは畜舎の中で餌の時間を待っている。
チャンミンはおくるみに包まれていたのだろうか。
いずれはアルパカたちの脚に、踏み潰されそうだったのではないだろうか。
ユノさんは鋭い目で動物たちに変化はないか見て回る。
白と茶色と黒と黄金色と灰色のまだら模様の、毛むくじゃらな塊を見つける。
ユノさんは驚いただろう。
ユノさんは腰にぶら下げた鍵束から、アルパカ部屋のものを見つけ出す。
カシャンと錠に鍵が回る音に次いで鉄製の扉がきしむ音が、コンクリート張りの建物内に響く。
駆け寄ったユノさんは、小さな毛皮の塊を両手で包み込む。
その不可思議な生き物...チャンミンは、ユノさんの大きな手の平におさまってしまうほど小さい。
ユノさんは目の高さまでチャンミンを持ち上げて、彼と目を合わせる。
チャンミンの大きな眼に、ユノさんの顔が映っている。
ユノさんはつなぎのボタンを外し、懐深くにチャンミンを隠す。
どんなに可愛くても、動物園の動物を勝手に持ち帰ることはできない。
休憩室か事務所で様子を見るしかない。
段ボール箱に敷いたタオルの上にチャンミンを下ろす。
この子は、誰の子だ?
知識豊かな飼育員たちにも、獣医たちも首をかしげていただろう。
これまで見たことのない、さまざまな動物の寄せ集めのような不格好な生き物。
どうやら赤ん坊のようだ。
どこからやってきたんだ?
多くの人間たちに至近距離から眺めまわされ、チャンミンは震えていただろう。
身体をいじくりまわされ、最も敏感な鼻に不用意に触れられ、チャンミンはパニックだったろう。
鼻先でひらひら揺れる無遠慮な指に、チャンミンは噛みついた。
唸り声は威嚇のものにしては迫力がない。
甘いミルクの香りからも顔を背けた。
そうであっても。
ユノさんに見つけてもらってよかった。
わが家に連れ帰ってもらえて、本当によかった。
・
食卓テーブルに並んだ温かい料理を、ユノさんと食べた。
人間の食べるものはごくたまにしかもらえないと知っているから、タミーはストーブの前から動かない。
窓ガラスは結露で白く曇っている。
サイズが合わなくなった私の古いスニーカーに、チャンミンは頭を突っ込んでいた。
「チャンミン、おっぱいの時間ですよ~」
夕飯前にストーブから下ろしてほどよい温度に冷ましたやぎ乳が、チャンミンの食事だ。
「チャンミン」に反応したのか、それとも「おっぱい」なのかは、チャンミンに聞いてみないと分からない。
チャンミンはスニーカーから頭を抜くやいなや、私を見上げる。
「待ってました!」と言わんばかりにまっしぐらに駆けてきて、私の足首に突進する。
気持ちは一直進でも、身体がついてこない。
脚はもつれ気味なのに、表情は真剣なのだ。
後ろ立ちして、私のズボンをカリカリと引っかく。
「すっかりママの顔だね」
ユノさんはまんべんなく火がまわるよう、火ばさみで薪をくべ直していた。
ストーブの前にしゃがみ込んだユノさんの背中はとても広い。
私はチャンミンの...一心に注射器をちゅうちゅう吸っている...小さな背中を撫ぜた。
(つづく)
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