(5)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

玄関のドアをカリカリ引っかいたら、おしっこの合図だ。

 

私はドアを開けて、チャンミンを外へと出してやる。

 

温かい室内にひゅっと寒風が吹き込んだ。

 

外は闇に包まれているのに、ほの明るいのは、雪原がわずかな星の光を反射して発光しているからだ。

 

ドア脇に吊るした温度計は氷点下10度を示している。

 

ユノさんの大きな足跡は、夕方から降り出した雪で隠れてしまっていた。

 

小さな足跡を点々と付けながら、チャンミンはポーチの端っこまでよちよちと歩いていく。

 

目的地まで抱き上げていってあげたいのを、ぐっと堪える。

 

チャンミンの鼻息が白い。

 

ガス火にかけたフライパンの中身を気にしながら、チャンミンの用が済むのをじりじりと待つ。

 

薪火が温めた部屋が冷えていくのも構わず、私はドアを開けたままだ。

 

この子はトイレを覚えてから半日も経っていないのだ。

 

ポーチは小さなチャンミンにとって広大で未知なる地。

 

数センチの雪も、チャンミンにとっては脚の付け根まで達する深さなのだ。

 

階段から転げ落ちるかもしれないし、辺りをうろつく野犬に襲われるかもしれない。

 

そして何より、ママである私に捨てられたと絶望してしまうかもしれない。

 

お尻を落とした姿勢のバランスをとろうと、後ろ脚を踏ん張っている。

 

膀胱を空っぽにしたチャンミンは、雪に脚をとられながら私の方へ一目散に(本人はそのつもり)駆けてくる。

 

差し伸ばした私の両手の間が、チャンミンのゴール地点だ。

 

「いい子いい子」と頬ずりせずにはいられない。

 

バターが焦げる匂いに慌てた私は、チャンミンを抱き上げたまま台所へ走った。

 

今夜のメニューは、ユノさんが下処理を済ませておいた魚にパン粉をつけ、バターで焼いたものだ。

 

私の仕事は夕飯の用意で、ユノさんは今、入浴中だった。

 

身体に染みついたケモノの匂いを落としてから、食卓につくのがユノさんの日課なのだ。

 

仕事中のユノさんを、実は見たことがない。

 

沢山の動物と触れ合えていいなぁと、動物好きたちは憧れるだろう。

 

実際は、単なる動物好きだけじゃ務まらない、覚悟のいる仕事なんだろうと...ユノさんの仕事ぶりを見たことはなくても、そうじゃないかな、と思っている。

 

想像してみた。

 

早朝。

 

ユノさんは、野菜くずと乾草を積んだ荷車を押している。

 

屋外の運動場は、前夜からの雪が降り積もって足跡ひとつない。

 

アルパカたちは畜舎の中で餌の時間を待っている。

 

チャンミンはおくるみに包まれていたのだろうか。

 

いずれはアルパカたちの脚に、踏み潰されそうだったのではないだろうか。

 

ユノさんは鋭い目で動物たちに変化はないか見て回る。

 

白と茶色と黒と黄金色と灰色のまだら模様の、毛むくじゃらな塊を見つける。

 

ユノさんは驚いただろう。

 

ユノさんは腰にぶら下げた鍵束から、アルパカ部屋のものを見つけ出す。

 

カシャンと錠に鍵が回る音に次いで鉄製の扉がきしむ音が、コンクリート張りの建物内に響く。

 

駆け寄ったユノさんは、小さな毛皮の塊を両手で包み込む。

 

その不可思議な生き物...チャンミンは、ユノさんの大きな手の平におさまってしまうほど小さい。

 

ユノさんは目の高さまでチャンミンを持ち上げて、彼と目を合わせる。

 

チャンミンの大きな眼に、ユノさんの顔が映っている。

 

ユノさんはつなぎのボタンを外し、懐深くにチャンミンを隠す。

 

どんなに可愛くても、動物園の動物を勝手に持ち帰ることはできない。

 

休憩室か事務所で様子を見るしかない。

 

段ボール箱に敷いたタオルの上にチャンミンを下ろす。

 

この子は、誰の子だ?

 

知識豊かな飼育員たちにも、獣医たちも首をかしげていただろう。

 

これまで見たことのない、さまざまな動物の寄せ集めのような不格好な生き物。

 

どうやら赤ん坊のようだ。

 

どこからやってきたんだ?

 

多くの人間たちに至近距離から眺めまわされ、チャンミンは震えていただろう。

 

身体をいじくりまわされ、最も敏感な鼻に不用意に触れられ、チャンミンはパニックだったろう。

 

鼻先でひらひら揺れる無遠慮な指に、チャンミンは噛みついた。

 

唸り声は威嚇のものにしては迫力がない。

 

甘いミルクの香りからも顔を背けた。

 

そうであっても。

 

ユノさんに見つけてもらってよかった。

 

わが家に連れ帰ってもらえて、本当によかった。

 

 

食卓テーブルに並んだ温かい料理を、ユノさんと食べた。

 

人間の食べるものはごくたまにしかもらえないと知っているから、タミーはストーブの前から動かない。

 

窓ガラスは結露で白く曇っている。

 

サイズが合わなくなった私の古いスニーカーに、チャンミンは頭を突っ込んでいた。

 

「チャンミン、おっぱいの時間ですよ~」

 

夕飯前にストーブから下ろしてほどよい温度に冷ましたやぎ乳が、チャンミンの食事だ。

 

「チャンミン」に反応したのか、それとも「おっぱい」なのかは、チャンミンに聞いてみないと分からない。

 

チャンミンはスニーカーから頭を抜くやいなや、私を見上げる。

 

「待ってました!」と言わんばかりにまっしぐらに駆けてきて、私の足首に突進する。

 

気持ちは一直進でも、身体がついてこない。

 

脚はもつれ気味なのに、表情は真剣なのだ。

 

後ろ立ちして、私のズボンをカリカリと引っかく。

 

「すっかりママの顔だね」

 

ユノさんはまんべんなく火がまわるよう、火ばさみで薪をくべ直していた。

 

ストーブの前にしゃがみ込んだユノさんの背中はとても広い。

 

私はチャンミンの...一心に注射器をちゅうちゅう吸っている...小さな背中を撫ぜた。

 

 

(つづく)

 

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