(7)君と暮らした13カ月

 

 

~冬~

 

 

ポーチに置いたベンチに座って、空と雪原の境界線を眺めていた。

 

視界の上下が青と白に、ちょうど2分の1に分かれている。

 

晴天の日が続いていた。

 

1メートル以上積もっていた雪のかさも、目に見えて少なくなってきた。

 

私の視力はきっと、もの凄くいいはずだ。

 

遮るもののない開けた風景を、毎日見続けているから。

 

毛布にくるまったチャンミンも私を真似て、空と雪原の境界線に鼻先を向けている。

 

景色に魅入っているフリはしていない。

 

無数の毛細血管と神経が張り巡らされたチャンミンの耳は、高性能のアンテナだ。

 

雪原の右端に杉林があり、チャンミンの耳はそちらを向いている。

 

私の耳ではキャッチできない音...雪下の巣穴を出入りするネズミの足音、日光に温められた雪粒が溶け崩れる音。

 

...もっと哲学的な音...遠い遠い彼の地の音を聞いているのかもしれない。

 

 

 

一か月前のことだ。

 

ユノさんが古着屋で幼児用のTシャツを買ってきてくれた。

 

短毛のチャンミンが寒いだろうからと、私が頼んだのだ。

 

3歳児サイズのそれは、小さなチャンミンには少し大き過ぎたため、余った生地を腰のあたりで縛ってやった。

 

これで温かく過ごせると満足した私は、いつもより豪勢な夕食の準備にとりかかった。

 

ケーキは昼間のうちに焼いておいた。

 

その日はユノさんの23歳の誕生日だったのだ。

 

動物園の仕事が忙しくて、帰宅時間が遅い日が続いていた。

 

疲れが溜まっていたユノさんは、ラグの上にタミーと寄り添って昼寝をしていた。

 

私の足首を舐めたり引っかいたり、うっかり蹴飛ばされても足元にいるはずのチャンミンがいなかった。

 

じゅうじゅういう炒め物の音で気付かなかった。

 

台所はリビングの一角にある。

 

振り向いた私は、その光景に「チャンミン!」と大きな声が出てしまった。

 

私の声に目を覚ましたユノさんは、何事かと起き上がった。

 

さっきまでまとっていた赤いTシャツから、チャンミンの胴が消えていた。

 

Tシャツはチャンミンの胴回りの空洞を保ったまま自立していた...まるでチャンミンがTシャツの中から外へとワープしたかのように。

 

チャンミンはラグに背中をこすりつけて、ジタバタしていた。

 

短い前脚でどうやって脱いだのか、大きな頭をどうやって襟元から抜いたのか、首をかしげたのだった。

 

 

その一か月後の今日、懲りない私はもう一度チャンミンに服を着せてみた。

 

ユノさんのベッドのシーツを洗濯機に入れて、リビングに戻った時、私は「チャンミン!」と叫んでしまった。

 

Tシャツの残骸が散らばっていた。

 

生地が毛先に触れて、毛皮の下の敏感な皮膚を不快に刺激したのだろう。

 

チャンミンの小さな顎に、尖った犬歯が生え始めていた。

 

毎日見ているとその変化に気付きにくいが、チャンミンは日々、じわりと成長している。

 

私の小指の爪よりもずっと小さな歯で、どうやってビリビリに切り裂けるのか首をかしげてしまった。

 

チャンミンに服を着せるのは諦めた。

 

寒かったら私の腕に飛び込んでくればいいし、こうして毛布でくるんでやればいい。

 

 

ユノさんの誕生日の話に戻ろう。

 

いつもより豪勢な夕飯のあと、バースデーケーキを...ふわふわに泡立てた生クリームを、これでもかと塗った...切り分けた。

 

タミーのお皿にも、「特別だよ」とひと切れのせた。

(ペロッと一口で飲み込んでしまった)

 

「チャンミンは...まだ早いかな?」

 

その頃のチャンミンは、ミルクに浸してふやかしたパンを食べられるようになっていた。

 

「そうだね。

チャンミンが肉食なのか草食なのか分からないね。

試しに野菜をあげてごらん」

 

人参グラッセをフォークでつぶしたものを、チャンミンのお皿にのせてみた。

 

チャンミンは頭を屈めて、ふんふんと肌色の鼻で匂いを嗅ぐ。

 

ふごふごと鼻を鳴らしている。

 

重い頭を支えようと、後ろ脚は踏ん張っている。

 

赤い舌でちろちろと舐めてみた直後、お皿の上のものが一瞬で消えた。

 

次に崩した肉団子をお皿にのせた。

 

これも一瞬で消えた。

 

私とユノさんは顔を見合わせた。

 

ユノさんなんて、切れ長の目をさらに細めて愛おし気にチャンミンを見ていた。

 

ケーキをひと切れ、うやうやしくチャンミンのお皿にのせた。

 

どうせ味わいもせず、ぱくっとひと口で食べてしまうと思った。

 

ところが、クリームをひと舐めひと舐め、いっぺんに無くなってしまうのを惜しむようだった。

 

特別なケーキ...ユノさんのバースデーケーキだって知ってるんだ。

 

チャンミンが可愛らしくて、私の分も分けてやろうとしたら、

 

「明日、トイレの始末に困るのは君だよ」と、ユノさんは言った。

 

チャンミンは物欲しげに、私たちの顔を交互に見上げていた。

 

 

チャンミンの丸い後頭部をスローテンポで撫ぜていた。

 

悪戯心が湧いてきて、チャンミンのぬらぬらした鼻をくすぐった。

 

大きな鼻がもぞり、と歪んだ。

 

「ぶちゅん」と、くしゃみをした。

 

そして、濡れた鼻を舌でひと舐めした。

 

辺りはあまりにも眩しくて、私は眼を細めていた。

 

チャンミンを覗き込むと、彼の上まぶたは下まぶたにくっつきそうだった。

 

密に生えた白いまつ毛が、日光を浴びて透明に透けていた。

 

眠りにつく瞬間を、今日も見ることができた。

 

私も安心して目をつむる。

 

チャンミンを毛布でくるみなおした。

 

 

(つづく)

 

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