(8)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

高原にかぶせられていた純白の分厚い布団が、日に日にかさを減らしていった。

 

日の出の時間も早まってきた。

 

天高く澄んだ空の青も、日増しに色濃くなってきた。

 

溶け残った雪の白と、芽吹き前の茶色い地面がまだらになって、家の前一帯に広がっている。

 

昨年の私だったら、冬の名残と春の訪れの端境の景色を美しいものだと捉えられず、冬の終わりを寂しく、残念に思っていた。

 

「チャンミンみたい...」と、つぶやいた。

 

チャンミンの毛皮は、白と黒と茶色と黄金色がパズルのように組み合わさっている。

 

その模様は、ヒョウ柄ともホルスタイン柄とも言える。

 

ポーチのベンチで日光浴をしていた私は、前庭で用を足すチャンミンを見守っていた。

 

風はひんやりしているけれど、じっとしていると日光に温められて、ぽかぽかと暖かい。

 

冬物の防寒コートはもう不要だ。

 

「おいで」

 

チャンミンは階段を1段1段をよじ登ってくる。

 

すっかり重くなったチャンミンを、膝の上に乗せた。

 

両まぶたの上に、眉毛のように白い斑点がひとつずつある。

 

この丸い眉毛が、チャンミンの顔を滑稽に、でも愛らしく見せているのだ。

 

目の前に広大な地が広がっているのに、チャンミンの行動範囲は家と前庭の10メートルの往復だけ。

 

知らない地へ足を踏み出すことを恐れているのもあるだろうけれど、チャンミンは私に気を遣っているのだと思う。

 

私はチャンミンを抱いてポーチから下りると、彼を地面に下ろした。

 

チャンミンはとことこと、前庭と道路の境ぎりぎりまで歩いてゆき、腰を落とした。

 

つんと、顎を持ち上げ、そよぐ風を鼻に受けている。

 

チャンミンの隣にしゃがみ込んだ。

 

風がどれだけ吹こうが、チャンミンの鼻は常に濡れている。

(絶対に乾かしてはならぬと、鼻の細胞はせっせと水分を送り出しているのだろう)

 

明るい茶色の眼はつむったまぶたで隠れてしまっている。

 

眠ってしまったわけじゃないのだ。

 

肌色の鼻はうごめいたままだ。

 

チャンミンはこんなに大きな頭をしているんだもの、目を閉じて一か月後の草原を想像しているのだ。

 

それから、普段折り畳まれている目蓋のしわの一本一本に、日の光を浴びようとしているのだ。

 

私は隣のチャンミンを飽くことなく、見つめ続けた。

 

「生きているとはなんと素晴らしきことかな」

 

チャンミンは心の中で、そうつぶやいているのだろう。

 

草原をはるばる吹き渡ってきた風に、長いまつ毛が揺れていた。

 

「あっちに行ってみたい?」

 

チャンミンに尋ねてみた。

 

目を開けたチャンミンは私を見上げた。

 

もう少し暖かくなったら...雪どけ水でぬかるんだ地面が乾き、草花で覆われるようになったら...。

 

外の景色の中で見るチャンミンは、ちっぽけだった。

 

私の足の甲に、チャンミンの小さな足が乗った。

 

「行ってみたい」の返事の代わりだと思う。

 

 

私は家の周りを点検するようにぐるりと歩き回っていた。

 

チャンミンはちょこちょこと私の後を追ってくる。

 

雪の重みで枯れ草や落ち葉が地面にぺったりと張り付いていて、チャンミンはそこへ鼻づらを突っ込んで匂いを嗅いでいる。

 

建物の角の向こうに私の姿が消えてしまったことに気付くと、大慌てで、この世の終わりかのような半べそかいた顔で追いかけてくる。

 

ユノさんは動物園の仕事が休みで、冬の間に傷んでしまった雨どいの修理のためハシゴに乗っていた。

 

「新しいものと交換しないと駄目みたいだ」

 

歪んだ雨どいを手にハシゴから下りてきたユノさんは、「叩いても真っすぐにするのは難しそうだ」と苦笑した。

 

築70年、あちこちにガタがきてもおかしくない建物は、こまめな修繕を必要としていた。

 

ユノさんがこの家を相続した時は、とても人が住めないほどに荒れていたそうだ。

 

施設にしかいく道のなかった私はユノさんに引き取られ、古いけれど住み心地のよいこの家に暮らし始めて約2年になる。

 

ここから50km離れた地で私と両親は問題を起こし、この地では2年前と去年と2度も問題を起こしていた。

 

ここから5km離れた街では当然、私が起こした出来事を知っている者たちがいる。

 

私には真実を主張できっこないと知っている彼らは、冷笑を浴びせるに決まっている。

 

私がずっと家に閉じこもっている理由のひとつが、それだ。

 

「街に買いに行ってこないと...ミンミンも一緒に来るか?」

 

「ううん」

 

私はいつものように断って、車に乗り込んだユノさんに頭を差し出した。

 

いつものようにユノさんに頭を撫ぜてもらう。

 

「ユノさん。

チャンミンを散歩に連れていこうと思うんだけど。

紐に繋いでいった方がいいかな?」

 

「紐?」

 

「うん。

チャンミン、どこかへ行っちゃうかもしれない。

山や野原で暮らしたいって」

 

ユノさんは窓から 私の足元を親指で指した。

 

「...どうだろう。

どこへも行かない、と俺は思っている」

 

「どこへも行かないって、どうしてわかるの?」

 

「野生に還りたくても、チャンミンは野生動物なのかどうかわからない。

なんせ図鑑に載っていない唯一の生き物だ。

彼にとって世界のすべてが、この家なんじゃないかな?」

 

「世界が広がったら...」

 

新境地を求めて旅に出たくなるかもしれない...と、心の中でつぶやいた。

 

「チャンミンはまだまだ赤ちゃんだから、そんな心配はもっと後のことだよ」

 

ユノさんはもう一度私の頭を撫ぜると、車を出した。

 

チャンミンはユノさんの車を追って駆けだしたが、前庭と道の境界線でぴたりと足を止めた。

 

チャンミンの世界を広げてあげようと思った。

 

遠くまで行ってしまいたいのかどうかは、チャンミンの判断に任せようと思った。

 

 

(つづく)

 

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