「ユノ」
揺すぶられて目覚めると、間近に迫ったチャンミンの顔。
「嫌な夢でも見たのですか?」
チャンミンの手で寝汗を拭われて、俺は唸り混じりの吐息をつく。
「...いや、ちょっと...思い出してしまって」
「そうですか...」
チャンミンは俺の頭をかき抱くと、子供にするみたいに髪をやさしく漉いてくれる。
「女なんて...嫌いだ」
「僕が男でよかったです」
「ああ。
全く、その通りだ」
説明なんてしなくても、俺のことはチャンミンには全てお見通しだ。
チャンミンの裸の胸に片頬をくっつけて、目を閉じる。
彼の規則正しい鼓動を確認して、俺は安堵する。
よかった、チャンミンは生きている。
「ユノ!
ふくれた顔をしていたら、ハンサムが台無しですよ」
俺の髪にリボンを結ぶチャンミンと、鏡の中で目が合った。
俺の髪の毛は母さんの趣味によって、顎下で切り揃えられたボブヘアだ。
「チャンミン...俺の髪を短くして」
「怒られますよ?」
「怒られるのは慣れてるよ」
ハサミを取り出した時、俺はハッとした。
チャンミンに俺の髪を切らせたら、チャンミンが怒られてしまう。
この屋敷では、チャンミンの立場はうんと低い。
俺の力じゃかばいきれない。
小さな子供の自分が情けなかった。
「怒られるようなことは、やめておきましょうね」
「...わかった」
頬におしろいをはたかれ、口紅を塗られた。
鏡に写る俺は、確かに女の子そのものだ。
「ユノ様、時間ですよ」
母さん付きの待女Tさんが、俺を呼びに来た。
この人は、大人たちの中でもマシな部類で、ドレスを着た俺を「可哀想に」と憐れむような眼差しで見る。
母さんのやることが、「普通じゃない」ってことを知っている眼差し。
彼女も使用人の立場だから、母さんのやることに何も口出しできないのだ。
「行ってらっしゃい」
部屋のドアの前で、チャンミンは胸の高さで小さく手を振った。
他の階には、チャンミンは足を踏み入れることができない。
エレベータを降り、階段ホールの前を通って母さんのサロンに向かう途中、階段の最後の一段に立つチャンミンを見つけた。
不機嫌さと不安感を隠せなかった俺を心配して、先回りして待っていてくれたんだ。
チャンミンは、俺が叱られてお尻を叩かれたりするのを心底案じている。
本当はそれだけじゃないんだけど、チャンミンには内緒にしていた。
そういう日は、もの凄く嫌だったけど女中頭Kや、待女Tさんに身体を洗ってもらう。
チャンミンに見られたくなかった。
心配性のチャンミンを悲しませたくなかったんだ。
チャンミンは俺を心配することしかできない。
俺に痛いことをする大人や従弟たちに腹を立てて、彼らに抗議することが出来ない身分だから。
俺の心情に共感してくれることまでしか出来ないんだ。
わずか7歳の子供の俺が、そこまで考えが及ぶようになるなんて...相手を思いやる心...チャンミンに教わった。
無条件に注がれるチャンミンの愛情に、甘えているばかりじゃないのだ。
俺が生まれた時、赤ん坊が女の子じゃないことに、母さんは相当がっかりしたらしい。
母さんは俺を女の子として育てようと、固く心に決めたとか。
母さんの優しさは胸やけしそうに甘ったるく、人工的に色付けされた砂糖菓子のようだった。
だが、その優しさも歪んだ愛情によるもの。
母さんの目に映る俺は女の子で、少しでも男であるしるしを見つけると途端に、俺を蔑む目で見る。
俺を溺愛しているかに見えて、子育てそのものは乳母任せで、言葉が話せるようになると子守りロボットにその役は移った。
鼻水べたべたな手や、うるさい泣き声と奇声、排せつ物で汚す生身の俺は見たくないのだ。
毎週土曜日に、繊細なレースで縁どったドレスで着飾った俺を眺め、撫ぜまわし、クリームたっぷりのケーキを食べさせることが、母さん流の愛し方なんだと思う。
「まあ、ユノ。
今日も可愛らしい...」
胸の上で両手を合わせて嘆息した母さんは、「どう?」と得意げにサロンに集う面々に俺を見せびらかす。
複雑に結い上げた髪、複雑に重ね着したドレス、キラキラ光る宝石、濃い化粧、細いヒール、いい香りをさせた女たち。
母さんの友達だという彼女たちは、入れ替わり立ち替わり、山深いここまで車や飛行機で訪ねてくる。
母さん自慢のサロンでぺちゃぺちゃお喋りをしたり、お菓子をつまんだりして遊んでいく。
「今日のユノは、お風呂に入るの、ね?」
俺にそっくりな黒い瞳で覗き込まれると、俺は頷くのがやっとになる。
チャンミンによって着せられたドレスを、1枚1枚、母さんの白くて華奢な手が脱がせていく。
「ユノ!」
耳元で囁かれたものなのに、俺にとってはどすのきいた怒鳴り声だった。
「母さん...ごめんなさい」
俺は慌てておちんちんを、両ももの間に挟んで隠した。
「みなさん、見てぇ。
ユノは女の子なのよ。
可愛いでしょう?」
俺は内ももに力を込めて、おちんちんがはみ出さないようにそろそろと、泡だらけのバスタブに身を沈める。
チャンミンに結んでもらったリボンは解かれ、俺の髪をシャンプーする姿を女たちに披露する。
「いたいっ!」
母さんの長い爪で、俺のお尻がつねられた。
「こんなに可愛いのに、お人形さんみたいなのに、痛いっていうの」
「あなたたちもどう?
ユノはとっても可愛い声で痛いっていうのよ?」
最初は遠慮がちだった女たちも、慣れてくればその行為もエスカレートしてくる。
女たちが帰った後、母さんは豊かな胸に俺の頭を埋めて、「ユノを愛しているから、痛いことをするのよ?次は気を付けるのよ?」と言うのだ。
こんなの愛じゃない。
チャンミンの愛情が注がれているうち、母さんのそれはニセモノだという確信を強めていった。
トラウマになってもおかしくないことなのに、そうならなかったのはチャンミンのおかげだ。
俺が8歳になった頃、いつまでも隠し切れなくてチャンミンにバレてしまって、その時の彼の表情が忘れられない。
チャンミンの丸いカーブを描いた...優しい心根そのものの...目から、涙の粒がぼろぼろとこぼれ落ちて、俺の頭をかき抱いておいおいと泣いた。
「知らなくてすみません」って。
俺の頬はチャンミンの涙でぐっしょりと濡れてしまい、いつまでも泣き止まないチャンミンの頭を撫ぜた。
「ユノを守れなくてすみません」って。
大人なのに子供の俺によしよしされるなんて、カッコ悪いとは思わなかった。
俺のために泣いてくれるチャンミンを慰めないと、って自然に出た行動だった。
俺の全部を目にしてくれて、俺を励まし、自信をくれる言葉を惜しげなく注いでくれた。
俺の味方はチャンミンだけ。
俺はチャンミンのことが、心から大好きだった。
・
9歳のある日。
書き物机からハサミを取り出した母さんが、俺のスカートをまくし上げてこう言った。
「ちょん切らないと駄目ねぇ」って。
そばで控えていた待女Tさんが止めに入ってくれたから、大惨事にならずに済んだ。
俺はそれ以来、女がもっと嫌いになった。
俺が男色の道を選んだのも、チャンミンが常にそばにいたせいばかりじゃないのだ。
(つづく)
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