(8)19歳 -出逢い-

 

湯たんぽを抱えた俺は、天井の低い、薄暗い廊下を走っていた。

 

ここは地下1階の、使用人たちの私室が並ぶエリアで、本来なら俺が居てはいけないところだ。

 

味もそっけもない金属製のドアを開けると、そこはベッドと机、本棚があるきりの狭い部屋。

 

これまた、味もそっけもないベッドで、長細く掛け布団が膨らんでいる。

 

「チャンミン!」

 

俺は枕元に膝立ちして、枕に片頬を埋めた綺麗な顔を覗き込んだ。

 

「ユユユユユノ...」

 

カチカチと歯が鳴って、言葉になっていない。

 

「あったかいぞ。

これを抱っこしていな」

 

俺はチャンミンの布団をめくって、湯たんぽを入れてやる。

 

「す、すすすすみ、ませ...ん」

 

茹でだこのように真っ赤な顔をして、チャンミンは力ないほほ笑みを見せた。

 

とても苦しいだろうに。

 

チャンミンはアンドロイドなのに、人間みたいに熱を出して震えることもできるのだ。

 

せっかくアンドロイドなんだから、もっと頑丈に、暑さ寒さなんてへっちゃらに作ってもらえばよかったのに。

 

チャンミンは強いけど、弱い部分もいっぱいある。

 

「みみみみ、みみを...どうか...しました、か?」

 

チャンミンは俺の心配をしてばかりだ。

 

自分の方がよっぽど、辛いのに。

 

「ちょっと怪我をしただけさ、平気だよ」

 

顔を曇らせたチャンミンを安心させようと、ニカッと笑って見せた。

 

強がってみせることを、覚え始めた俺だった。

 

誕生日プレゼントだと言って、母さんからピアスを贈られた。

 

押さえつけられて、母さんの手によって両耳たぶに穴を開けられた。

 

待女Tさんが消毒をしてくれたけど、耳たぶを飾る石をニットでひっかけるとか、ちょっとした刺激で血がにじんでしまうのだ。

 

「ユユユ...ノ...かわ...いそ...に...」

 

「チャンミン!

飲まなきゃ駄目だぞ!」

 

枕元に置いたグラスのジュースが減っていなかった。

 

おやつの時間に出されたジュースを、俺はこっそりチャンミンの元に運んだのだ。

 

頭を起こせないくらいに、チャンミンは具合が悪いんだ。

 

チャンミンのおでこと耳の下に、手をあてると燃えるように熱い。

 

こんなに熱いと、チャンミンのコンピューターが壊れてしまうんじゃないかと、不安だった。

 

「ユユ...ノの手...きき、ももちち...ぃ」

 

「チャンミンは黙ってて」

 

かつて、風邪をひいた俺を看病してくれたチャンミンの行為を、ひとつひとつ思い出す。

 

おでこを冷やすんだ。

 

俺が絞ったタオルから雫が垂れて、チャンミンの前髪を濡らしていた。

 

子供の力で絞ったものだから仕方がない、か。

 

それから、水分をとらせないと。

 

熱が出ると身体の水分が沢山失われてしまうから、ってチャンミンに教えてもらった。

 

コップをそろそろと傾けて、チャンミンの唇の隙間から中身を流し込もうとしたら、どっと注いでしまい、チャンミンがむせてしまった。

 

ゲホゲホと咳をするチャンミンの背中が、弓なりに痙攣した。

 

余計にチャンミンを苦しめてしまった。

 

上手に看病できない自分が情けなかった。

 

「ごめんね、ごめんね」

 

チャンミンの薄茶色の瞳が、ギラギラと光っていた。

 

瞳の表面を膨らんだ涙が覆っていて、泣いているみたいに見えた。

 

チャンミンは身体が辛くて辛くて仕方がないんだ。

 

「ユユ...ノ...。

くつ...下、履いてません、ね?

ダダダダ...メです...よ。

...風邪...ひき、ます」

 

かすれたチャンミンの声は囁きに近い。

 

チャンミンが可哀そう。

 

お医者さんに診てもらわないと!

 

注射とか点滴とかしてもらわないと!

 

だって、チャンミンは人間みたいな造りをしているようだから。

 

ご飯も食べるし、おしっこもするし、眠たくもなる。

 

それとも...工場に連れていって修理をしてもらえばいいのかな。

 

でも、それが出来ずにいる。

 

父さんにそう訴えたら、「新しいものにするか?」と言いそうだから。

 

父さんの性格を考えたら、そう言うに決まってる!

 

アンドロイドを心配する者は、この屋敷にはいない。

 

アンドロイドのために、遠くからお医者さんを呼んでくれる人は、この屋敷には誰もいない。

 

 


 

 

冬の湖に突き落とされてしまったチャンミン。

 

ピアノのレッスンを知らせに俺を探しに来た女中頭Kと、途中鉢合わせになった。

 

この時だけは、Kに感謝した。

 

遅れて2、3人の従兄弟たちも俺を追いかけてきていて、彼らの補足のおかげで女中頭Kは事態を理解した。

 

運転手さんたちを引き連れて桟橋に戻った。

 

ロープを結わえた浮き輪を投げ入れて、大人3人の力でやっとのことでチャンミンを引き上げたのだ。

 

ずぶ濡れになったチャンミンは、ガクガクに震えていた。

 

DとE、残りの従兄弟たちはいなくなっていた。

 

 


 

 

待女Tさんに泣きつくことになった。

 

「奥様の薬箱に、あったはずです」

 

「Tさん、大丈夫?

怒られない?」

 

「奥様の薬コレクションときたら...。

1粒2粒なくなっても、わかりません。

1瓶なくなっても、わからないでしょうね」

 

「ユノ様!」

 

「ん?」

 

「お耳は、平気ですか?」

 

「うん、大丈夫。

今はチャンミンが大変な時なんだ。

これくらい、大したことないよ」

 

Tさんから分けてもらった薬瓶を、手の中にぎゅっと握りしめて、チャンミンの元へ走る。

 

「チャンミン、薬をもらってきたよ。

飲んで?」

 

俺に気づいて、にこっと、チャンミンの口角が上がった。

 

「笑わなくていいんだよ?」

 

俺はよしよしと、チャンミンの頭を撫ぜてやった。

 

チャンミンの唇はかさかさで、皮がめくれあがっていていた。

 

握りしめてきた白い錠剤を、チャンミンの唇の間に押し込んだ。

 

このまんまじゃ、チャンミンの喉にひっかかってしまう。

 

水!

 

俺は水の入ったグラスと、チャンミンの唇を交互に見る。

 

グラスの水を口いっぱい、ふくんだ。

 

そして、チャンミンの口に俺の口をくっつけた。

 

困ったな...チャンミンの口は閉じたままだ。

 

ふくんだ水を一旦、ごくりと飲み込んだ。

 

「チャンミン、ちょっとだけ口を開けて?」

 

俺の言うことに素直に従って、チャンミンの口が浅く開いた。

 

俺はもう一度、水を口いっぱい含んだ。

 

チャンミンの隙間へちょろちょろと、注いだ。

 

チャンミンの喉がごくりと動いて、俺の水を飲みこんだ。

 

「もっと水いる?」

 

チャンミンはこくんと頷いた。

 

コップの水を口に含んで、チャンミンの唇の隙間から流し込む。

 

「ジュースを飲む?」

 

チャンミンはこくんと頷いた。

 

「オレンジジュースだよ。

甘くて酸っぱくて、美味しいよ」

 

ジュースを含んでは、チャンミンに飲ませてあげる。

 

何度も繰り返した。

 

繰り返すうち、唇の隙間へ注ぎ込むんじゃなく、俺とチャンミンの唇を合わせて、口移しに与えると効率がいいと知る。

 

こういうのがキス、っていうのを知っている。

 

屋敷内で、キスしてる人を見たことがある。

 

その時は、キスしてる、なんてこれっぽっちも思わなかった。

 

俺が10歳になったときに、今回の出来事を振り返ってみた時、あれはキスだったんだ、とあらためて知ったのだった。

 

「あ...り、がと...うござい...ます」

 

チャンミンは熱のせいで、ほっぺをてかてかに光らせて、眩しそう俺を見上げた。

 

「のどが渇いてたら、俺に言うんだよ?

ヨーグルトはいる?

スープも持ってこようか?」

 

チャンミンは目を細めて、うんうんと頷いている。

 

俺を頼ってくれることが嬉しくてたまらなかった。

 

今夜は食堂で食べずに、部屋まで食事を運んでもらおう。

 

それをそのまま、チャンミンのところに運ぼう。

 

 

ねぇ、チャンミン。

 

早く良くなってね。

 

あいつらにはもう、指一本触れさせないからね。

 

俺が守ってあげる。

 

おやつも全部あげるし、早起きするし、勉強もいっぱいする。

 

だから安心して、いっぱい寝てていいからね。

 

早く元気になって、俺と遊ぼう。

 

お弁当を持ってピクニックに行こう。

 

ね、チャンミン?

 

 

(つづく)

 

 

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