民は眠れずにいた。
深夜、看護師が点滴の交換に来たときは、眠っているふりをした。
頭の中がもんもんとしていたのは、うずくように痛み続ける怪我のせいだけじゃないことが分かっていた。
チャンミンの言動が理解不可能で、ここまで一人の男性と密接に関わったことのない民にとって、荷が重すぎる状況だったのだ。
(チャンミンさんはどういうつもりだったんだろう。
もし...本当に私が健忘症だったとしても、いずれはバレてしまうような嘘をつくなんて。
ショック療法、のつもりかな。
そうだとしても、『彼氏だよ』だなんて...発想が凄すぎる。
さらに...さらにですよ!
彼氏のフリをしていたんですよ。
ぷっ...チャンミンさんって、面白いひとだ。
ぷっ、チャンミンさんはやっぱり、マジメ一徹な人だ。
突っ込んで質問したら、一生懸命に考えているんだもの)
民の頭に、チャンミンと裸で抱き合うシーンがぼわーんと浮かぶ。
(こら!
何を想像してるの!
チャンミンさんをそういう対象で見たら駄目でしょう!
そんなんじゃないのに...。
そういう関係じゃないのに...)
寝ていられなくなった民は、むくりと身体を起こした。
ずきっと後頭部が痛んで一瞬、顔をしかめ、ベッドから足を下ろす。
薄闇の元、冷たいリノリウムの床についた白い裸足に、「なんて大きな足なんだろう」と思う。
(チャンミンさんとの『恋人ごっこ』は楽しかった。
リアルに想像してしまった。
もし...。
もし、チャンミンさんが私の彼氏だったら、あんな感じなんだろうなぁ)
民の胸は甘くしびれた。
(『忘れているふり』をしていたことがバレてしまった。
ついでに、騙されているフリをしていたこともバレてしまった。
恥ずかしい...)
薄暗い病室の窓からの景色、深夜過ぎでも灯り続けるビルの窓明かり、規則正しく並ぶ高速道路の道路照明。
(チャンミンさん。
どうして『彼氏』のふりをしたの?
リアさんがいるんでしょ?
私は単純ですぐにその気になっちゃう人間だってこと、知ってますよね。
チャンミンさんといると、嬉しい気持ちと嬉しくない気持ちが同時に存在して、それが私を混乱させる。
チャンミンさんの気持ちが分からない。
私の気持ちも、分からない。
ううん、違う。
なんとなく分かっている、本当は)
チャンミンも眠れずにいた。
電車を乗り継いで帰宅した。
タクシーを使ったりしたら、暗く静かな車内で、いらぬ想いが渦巻く一方だったからだ。
(とんだ茶番で、大赤面ものだった。
民ちゃんったら、記憶喪失のフリをしていただなんて。
ぞーっと血の気が引く思いをしたんだぞ。
民ちゃんが意識不明の重体なんじゃないかって、そう覚悟して病院に駆けつけたんだから。
Tの話をちゃんと聞いていなかった僕も悪いが。
そういうつもりでいたから、「あなたは誰ですか?」なんて言われたら、記憶を失ったんじゃないかって、信じるに決まってるじゃないか)
チャンミンはベッドを抜け出し、冷蔵庫から出した冷たいミネラルウォーターを一気にあおった。
入眠の邪魔をしていた恥ずかしさによる身体の火照りを、冷ましたかったのだ。
レンジにぶらさげたミトンに、くすっと微笑する。
鼻をぶつけたチャンミンを手当てしようと、民からミトンを渡された出会いの夜のことが思い出されたからだ。
レンジの電光表示時計の明かり 冷蔵庫のたてるモーター音、静かで快適な温度に保たれた、広くて贅沢なマンションの一室。
近いうちにチャンミンは、この部屋を出る。
頭を占めていたリアの妊娠騒ぎは、チャンミンにとってもう、どうでもよくなっていた。
(つづく)
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