(2)抱けなかった罪

 

俺とチャンミンは第二外国語にドイツ語を選択していた。

 

講義開始5分前に席について、バックパックから教科書や筆記用具を取り出す。

 

追試ほど時間を無駄にするものはないと考えているから、サボる学生が多い中、俺は遅刻も欠席もせず真面目に受けていた。

 

(しまった!)

 

辞書を忘れてきていた。

 

家を出る30分前まで彼女といちゃついていて、慌てて部屋を飛び出してきたせいだ。

 

「ここ、いいですか?」

 

俺の返事を待たずに、隣に誰かが座る。

 

根暗系、全身黒づくめ、長身の男。

 

こいつがチャンミンだ。

 

机に置かれたバッグを見つめる俺の視線に気づいたチャンミンは、反対側に置いた俺のバッグを見る。

 

「お揃いですね。

ここのバッグ、かっこいいですよね」

 

シンプルながらも、部分的に箔を使ったデザインで、あまりポピュラーじゃないブランドのものを知っていることが新鮮だった。

 

1クラス200人はいたことと、入学してまだ2か月だったこともあって、チャンミンと言葉を交わしたのがこの時が初めてだった。

 

「宿題...やった?」

 

講師が壇上に立ち講義が始まり、俺はヒソヒソ声でチャンミンに声をかけた。

 

「はい」

 

「写させて」

 

「いいですよ」

 

チャンミンはすっと俺の方にノートを滑らし、それを受け取った俺は「ありがとう」と大急ぎで写し始めた。

「あの...」

カリカリとペンを走らせる俺の肩を、チャンミンが突いてきた。

「ん?」

「出席カード...余分に持ってますか?」

「あるよ」

この必須科目は出欠に厳しいことで有名で、​出席カードを受け取ってから席につく。

 

受講後に記名したカードを提出してはじめて出席扱いになり、ご丁寧に講義ごとにカードの色が違う。

 

俺はこの辺りは要領よく、ほぼ全色コンプリートして、いざという時のために余分にもらっていたのだ。

 

「受け取るのを忘れてしまって...。

助かりました」

 

ちらりと俺を見て、チャンミンはホッとした笑みを浮かべた。

 

先ほどまでの固い表情が、一気にくつろいだものになった。

 

「...なぁ」

「何ですか?」

「すごいな」

 

辞書の中身を俺が指さすと、

 

「ああ!

それは...」

『そこ!』

 

ヒソヒソ喋る俺たちは講師に注意されてしまった。

​・

講義の後、教室を出た俺たちは連れ立ってカフェテリアへ足を運んでいた。

 

「お前の辞書、すごいな」

 

「試験に落ちたくありませんからね」

 

「すごいな...。

教科書も参考書がいらないレベルだよ」

 

「辞書は持ち込みOKでしょ」

 

「そうだからって...さ」

 

ドイツ語は4講義ごとにミニ試験がある、わりと厳しめの科目でもあった。

 

ドイツ語の辞書を開いて俺がたまげたのは、付箋とマーカーだらけ、さらにページの余白にびっしりとの手書きの文字。

 

チャンミンは講師の言葉や教科書の文章のすべてを、辞書の中に詰め込んでいたのだ。

「試験は教科書の内容がまんま出題されるでしょ。

必要最低限の努力で、Aをとるにはこの方法が最適なのです」

「じゃあ、余った時間は何してるんだ?」

「これといってやりたいことがないのですよねぇ」

「努力を節約する意味ないじゃん」

 

呆れながらも、チャンミンの少しズレたところに魅力を感じた俺だった。

 

この一件は「ドイツ語事件」と名付けて、俺がチャンミンをからかうネタになった。

 

ここまで会話を交わしてから、俺たちは名乗り合った。

「これで君の名前と顔が一致しました。

いつも女子と一緒にいますよね。

珍しいですね、今日は一緒にいませんね」

チャンミンはキョロキョロ見回した。

「俺の部屋に多分、今もいるはず」

 

「うわー、いやらしいですね。

​あ...」

 

急にチャンミンは立ち止まった。

 

チャンミンの視線は、研究棟から出てきた白衣の人物にくぎ付けになっている。

 

建物の前に停めてあった自転車にまたがったその人物は、チャンミンに気付いて「やあ」と声をかけると、俺たちの前を通り過ぎ裏門を出て行ってしまった。

 

「院生?」

 

「いいえ、5年生です」

 

チャンミンの片手は、さっきの彼に手を振ったポーズのままだった。

 

「好きな奴?」

 

「はい」

「男...」

 

「そうです」

 

「男!?」

 

「はい。

僕の恋愛対象は、男性です」

 

さらりと素直に認めるチャンミンの横顔を、再び新鮮な思いで見つめてしまった。

「向こうは?」

「全然。

僕が一方的に好きなだけです。

サークルが一緒です」

 

白衣の彼の姿が消えるまで見送るチャンミンの表情は、うっとりと甘い。

 

この時、チャンミンをからかう気持ちは微塵も湧かなかった。

 

ここまで恍惚とした表情をさせる白衣の彼のことが、少しだけ羨ましかった。

 

 

全く...。

 

チャンミンは全く気付いていない。

 

いい加減に気付けよ。

 

チャンミンのことが好きな俺の気持ちを。

 

いつの間にか、チャンミンに惹かれていた俺。

 

気付かなくて、当然か。

 

いつも相手の方から求められて、まんざらでもない相手だったら交際してきた俺だったから。

 

自分の方から求めたことがない俺だったから。

 

口をつぐんだ俺の気持ちが、チャンミンに伝わらなくて当然なんだ。

 

(つづく)

 

 

 

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