「参ったな...」
チャンミンは途方にくれていた。
足首まで水に浸かっていた。
サーサーいう音が、コンクリート作りの室内に反響している。
天井から水が落ちてきて、壁にも水が伝っている。
水位は徐々に上がってきており、スニーカーを履いたつま先が冷たさで凍えていた。
タブレット画面を幾ページもスクロールしてみたが、具体的な対処方法を見つけることができない。
(頼りにならないマニュアルだ)
昼間、Tに指摘されてドーム内を巡るパイプやバルブを1つ1つ確認してみたが、そのどれもが異常なしだった。
それならと、ポンプ室に向かったらこの有り様だった。
出勤した時点では、天井から水がしたたり落ちてもいなかったし、こんな風に床が水びたしにもなっていなかった。
チャンミンは、脚立に上って天井を走るパイプの1本1本を、タンクのバルブ1つ1つを丁寧に見たが、そのどれもが水源ではないことを確認できただけだった。
タンクの底に亀裂があるかもしれないと、床に這いつくばってもみた。
(そういえば、音がいつもよりうるさかったような気もする。
苛立ちの原因を追究するのに忙しかったから、気づかなかったのか?
給水パイプのどこかが詰まって、水を送り出す給水タンクに負荷がかかったせいだろうか?
それなら、もっと早い段階で分かるはずだし...)
首をひねっているうちに、天井から滴る水がチャンミンの髪と肩を濡らしていく。
地下にあるポンプ室は、暖房機器もなく、普段からじめじめと冷気が満ちている場所だ。
足元は水に浸かり、雨のように降り注ぐ水でびしょ濡れで凍えそうだった。
チャンミンは、ポンプ室入口のコンクリート製の階段に腰かけた。
階段を2段登った上に、スチール製のドアがある。
(今夜はこのままにしておいて、あとは業者に任せようか)
水かさは、チャンミンのふくらはぎまで到達している。
部屋の片隅でほこりをかぶっていた排水ポンプ見つけて、一瞬、助かったと安堵したが、ポンプに取り付けるホースが見当たらなかった。
役立たずの排水ポンプを、苦々しい気持ちで睨みつける。
「はぁ」
チャンミンは濡れた前髪をかき上げて、濡れて重くなったジャケットを脱いだ。
壁にかかった、気温計を見やる。
薄いTシャツ姿は摂氏7℃にはふさわしくないが、着ている方がかえって冷えてしまう。
(このままじゃ、また風邪をひいてしまう)
「よいしょっと」
両ひざをてこに立ち上がろうとした時、
「!」
ガツンと後頭部を殴られたような衝撃が走る。
勢いで前のめりになったチャンミンは、冷たい水の中に四つん這いになってしまった。
不意打ちと痛みで両手で頭を抱えていると、背後から声がする。
「チャンミン!」
振り向くと、目を真ん丸にしたユノがいた。
ドーム内を、チャンミンを探して駆けずり回っていたユノ。
「あ!」
毎朝チャンミンが、点検のため降りるこのポンプ室のことを思い出した。
案の定、地下へ続くハッチが開いていた。
(やっぱり!)
穿たれた暗くて深い穴の中へと、シンプル極まりない梯子を1段1段下りていくのは、高所恐怖症のユノにとって、勇気のいる行為だった。
(ったく。
こんな穴倉でチャンミンは何やってんだ?)
足が最後の1段から、地面に下り立つと、ユノは緊張と恐怖でガチガチだった身体の力を抜くことができた。
「ふう...」
胸をなでおろす。
「チャンミーン!」
ポンプ室までの十数メートルの廊下は、無人だ。
(部屋ん中で、倒れてるんかな?)
四面がコンクリート製の廊下は、壁に設置された小さな電灯だけで薄暗い。
(なんの音だ?)
梯子を下りていく時も気付いていたが、サーサーと雨が本降りの時のような音がしている。
下へほど、その音は大きくなっていった。
「チャンミーン!」
チャンミンを呼ぶ声が、廊下に響く。
(不気味な場所だな)
ポンプ室のスチール製のドアは突き当りだ。
(叫んでも、中には聞こえんか)
錆と塗装のはげが目立つドアのレバーをつかんで、引っ張る。
(開かん!
鍵がかかってるのか!?)
焦ったユノは両手でレバーをつかんで、力いっぱい引っ張った。
(ドアを壊すものがいる!
クワか?
スコップか?
幸い、農道具はなんでも揃ってるから助かった!)
地上へ引き返そうとしたユノは、はたと気付いた。
(俺は、おバカさんか)
レバーをつかんで押と、重いスチールドアは抵抗もなく開いた。
ほっとしたユノは、ドアをもっと開けようとする。
「ん?」
ガツンと鈍い音がして、何かにつかえてこれ以上開かない。
開いた隙間から中をのぞく。
「チャンミン!」
Tシャツ姿のチャンミンの背中が見える。
頭を抱えながら振り返って、ユノの方を睨みつけていた。
「ごめんごめん!」
慌ててユノはチャンミンの元へ駆け寄るが、すぐに異変に気付いた。
「冷たっ!」
ステップから踏み出した足の冷たさに驚き、周囲を見回した。
(おいおいおいおいおい)
「なんだよ、これは!」
部屋中水浸しだった。
水が天井から落ち、壁を伝っている。
その中で、膝をついたチャンミンは腰まで水に浸かっている。
「なんで?」
「知るかよ!」
差し出したユノの手を、パチンと振り払ったチャンミンはゆらりと立ち上がった。
「ごめんな、痛かったよな?」
後頭部をさするチャンミンを見て、ユノは謝る。
「まさか、あんたがいるとは思わなくてさ」
「......」
(まずいな、まだ怒ってる)
むっつりと背を向けたチャンミンの背中を見て、ユノは不安な気持ちになる。
(喜怒哀楽の「怒」が前面に出ちゃってるなぁ。
なにか腹が立つきっかけがあったのかなぁ?
何だろ?)
一方チャンミンは、昼間ユノに会ったら謝ろうとした気持ちを忘れてしまっていた。
ユノの顔を見たら、苛立ちの気持ちが湧いてきてしまうのだった。
(つづく)
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