(50)時の糸

 

 

~チャンミン~

 

 

僕はうとうとしていた。

 

冷え切った身体で、興奮から覚めて、疲れていて、眠気に襲われてしまった。

 

「...ミン」

 

僕を呼ぶ声。

 

白くまぶしすぎて、場所はわからない。

 

僕は腕をまくっていた。

 

まくるたびに、袖が落ちてくるから、何度もまくり上げていた。

 

手首からひじに、冷たいものがつたってくる。

 

「...ミン」

 

すーっと顔が近づいてきた。

 

汗ばんだ額に、髪のひと筋がはりついていた。

 

伏せていて顔は見えない。

 

間近につむじが見えた。

 

僕は、水気たっぷりの熟れた果物を手にしていた。

 

手のひらから、たらたらと果汁が滴り落ちていた。

 

近づいてきたその人は、

 

僕の腕を、ぺろりと舐めた。

 

滴る果汁を、ぺろりと舐めた。

 

 


 

 

「ハックション!」

 

ユノのくしゃみの音で、チャンミンは飛び起きた。

 

「!」

 

身体をビクッとさせたチャンミン。

 

「あんた...まさか、寝てたんじゃないだろうね?」

 

「......」

 

チャンミンは、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。

 

(夢...か)

 

「しっかりしろよ。

俺の背中の熱を、あんたに分けてあげるから」

 

「う、うん」

 

(あの人は、誰だ?)

 

舐められた感触が、生々しく覚えている。

 

腕を確認して見たかったが、ユノが手首をがっちり押さえ込んでいて、腕を引き抜くわけにはいかない。

 

チャンミンはギュッと目をつむって、映像の断片だけでもと、手繰り寄せようとした。

 

(果物を食べていた。

2日前にみた夢の中で、隣を歩いていた人。

果汁で濡れた僕の腕を、舐めた人)

 

チャンミンは確信していた。

 

(2つの夢に登場した人、顔は分からないけれど、同じ人物だ。

共通した雰囲気を持っていた。

でも、知らない人

誰だよ。

舐めるって...どういうことだよ。

不快だ)

 

じくじくと、こめかみがうずいてきた。

 

頭痛の予感がしたチャンミンは、すぐさま思考をストップさせる。

 

黙り込んだチャンミンを心配したユノは、肘でつつく。

 

「チャンミン、寝るなよ。

冬山で遭難した時は、眠ったらそのまま死んでしまうらしいぞ」

 

「ここは冬山じゃないよ」

 

「何が悲しくて、職場で遭難しなくちゃいけないんだ」

 

「まったくだ」

 

大の大人が高いところによじ登って、はた目から見ると滑稽な眺めだ。

 

「チャンミン、大丈夫か?」

 

「大丈夫って?」

 

「コントロールできない、とか言ってただろ?」

 

「ああ!

そのことか」

 

カイと一緒にいたユノを見て沸き上がった、腹立ちと不安感をどう処理すれば分からなかったこと。

 

苛立ちで渦巻くチャンミンの内心をよそに、いつもと変わらないユノの様子が、それに拍車をかけたこと。

 

「お兄さんに話してみな」

 

でも、災難に巻き込まれてしまい、ユノと密着して体温を分け合っているうち、そんな苛立ちの嵐は過ぎ去ってしまったこと。

 

「あのさ...」

 

チャンミンは、口を開きかけた。

 

「うんうん」

 

「...ううん、何でもない」

 

(僕は、今、何を言おうとしていたんだ?

ユノに伝えようとしたことは、何だったんだ?)

 

「大丈夫だよ」

 

「言いかけて止めるなんて、余計に気になるじゃないか!」

 

「いや、ホントに大丈夫なんだって」

 

「それなら、いいんだけどさ。

チャンミンも大人しくなってよかったな」

 

「大人しく?」

 

首をかしげるチャンミンと、こみ上げる笑いに肩を震わすユノ。

 

「おい!」

 

チャンミンは「大人しく」の意味が分かると、顔を真っ赤にさせる。

 

「今度こそ、突き落とすよ?」

 

チャンミンは、ユノのブーツを軽く蹴った。

 

「こらっ!

水が浅いところに落ちたら、床に直撃じゃないか!

...あ!

ほら!」

 

ユノに指摘されて、チャンミンは斜め下の出入り口ドアの辺りを見下ろした。

 

「やっと出られるよ」

 

タンクから見下ろす水面が、ぐっと遠くなっていた。

 

入口のステップ面があと少しで露わになりそうだった。

 

「やった!」

 

リストバンドの時刻を確認すると、21:00。

 

滝行から3時間。

 

「うわっ、もうこんな時間か!」

 

「降りよう」

 

「助かったぁ」

 

チャンミンはタンクから飛び降ると、ユノに向かって両腕を伸ばした。

 

「おいで」

 

(ヒロインが、恋人の胸に飛び込む...まんまなんですけど...。

俺はヒロインじゃなくて、ヒーローなんですけど)

 

ロマンティックなイメージがユノに浮かんだが、

 

「無理!」

 

恐怖のあまり、お尻がタンクにくっついてしまったかのようだ。

 

「大丈夫だから」

 

チャンミンは差し伸ばした手で「おいで」のジェスチャーをする。

 

「あんたに俺の命を預けるよ」

 

「大げさだなぁ」

 

チャンミンは身をのりだしたユノの脇の下に手を差し込むと、ガチガチに身体を硬直させたユノを、すとんと床に下ろした。

 

ユノの脚が再び、水に浸かる。

 

水の深さは30センチの高さまで下がり、2段あるステップの上段が露わになっていた。

 

「あ、ありがと」

 

「どういたしまして。

ユノったら姫になってたね」

 

「あのなー。

毎度のことだが、その一言が余分なんだよ!」

 

チャンミンの背中を叩く。

 

「ははっ。

元気になったみたいだね」

 

鉄製の重いドアを引くと、あっさり開いた。

 

「やった!」

 

2人は目を輝かせて顔を見合わせた。

 

(つづく)

 

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