~チャンミン~
ユノはバスルームで、僕はひとりリビングに残された。
シャワーを浴びたばかりなのに脇の下は汗で濡れていて、立てた片膝に額をぎゅっと押し当てた。
倒れていたところを、ユノに発見された。
なぜ意識を失うことになってしまったのか、僕の身体内でどんな異常が起きたのかは分からないけれど、ずんと脳みそが揺れる感覚に襲われた。
・
ユノが訪ねてくる前に入浴を済ませて、洗面所を出たところだった。
照明を消した室内は真っ暗で、リビングの窓から夜景がのぞめる。
洗面所の照明を背後に、僕のシルエットがくっきりと窓ガラスに映っていた。
オレンジ色の灯りに、黒い僕の影。
オレンジと黒のコントラスト。
オレンジ色の炎と黒い影。
ぽたぽたと湯上りの肌を滴り落ちる水。
ちゃぷちゃぷと僕の肩を濡らす液体。
熱くて仕方がないのに、僕をびしょ濡れにするそれは冷たくて気持ちよかった。
巨大なもので腰を挟まれて身動きがとれない。
おかしいな...僕は今、洗面所の入り口に立っていたはずなのに。
「チャンミン!」
振り絞るような必死の声。
僕のこめかみから温かいものが首につたっていて、確かめたわけじゃないがそれが血だと知っていた。
伸ばした手の平は、砂利交じりの土か。
僕の指に絡まる細い指は、僕を呼ぶ声の主で顔は見えない。
高い声は、女の人のものだ。
オレンジ色の光がまばゆ過ぎるせいなのか、顔面が黒く塗りつぶされている。
肩幅や、首から肩へのシルエットから判断しても、やっぱり女の人だ。
「チャンミン!」
この人は、何度も僕の名前を呼んでいる。
誰だ...この人は?
「チャンミン...もうすぐだからね。
もうちょっと、頑張って」
「頑張る?」
頑張るって、何を?
動かせるのは肩から上で、その下は何か巨大なものが僕を押しつぶしていて身動きがとれない。
腰から下の感覚がない。
「チャンミン!」
その人はまた、僕の名前を呼んだ。
頭を持ち上げているのが、いよいよ辛くなってきて地面に片頬を落とした。
目に入る血が視界を妨げて、拭いたくても出来ず、まばたきを繰り返した。
「チャンミン!
こっちを見て!」
渾身の力を振り絞って、頭を持ち上げた。
彼女は僕の手を握りしめたけど、握り返す力が僕にはもう、ない。
指先だけで、彼女の手の平をくすぐるのが精いっぱい。
「K」
僕は呼んでいた。
「目をつむっちゃ駄目。
こっちを見て」
「...K」
K...?
僕の名前を何度も呼んだ。
感覚を失いかけた僕の手を、握りしめる彼女の手。
Kって...誰だ?
この直後だ。
もの凄い力で闇へと引きずり下ろされたかのように、感覚が失われた。
目覚めたら、ユノの膝の上にいた。
頭蓋骨の内側が、ズキズキとえぐるように痛い。
僕は立ちあがった。
頭は痛いは、不快な夢は見るは、意識を失うは。
僕はどんどん記憶を失っていっているらしいから、夢の内容が実は現実のことだったら...どうしよう!
なぜなら、夢にしては生々しかった。
夢の中で、架空の人の名前をでっちあげるものだろうか?
こめかみ上の生え際を指で探ってみたが、傷跡らしいものはない。
僕を呼んだあの女の人は、過去に会ったことがある人だったらどうしよう。
K...なんて、知らないよ。
もっと重要なことに思い至る。
何か巨大なものに下敷きになったらしい僕に、叫ぶように名前を呼んでいた彼女...K。
ユノと水攻めになって、閉じ込められた時に、うとうとしていた僕は夢をみていた。
断片的なものだったけれど、果汁滴る僕の腕をぺろりと舐めていた女の人。
彼女と、さっき見た夢の中に登場した「K」と、同一人物だ。
僕の腕を舐めていた女の人の顔はぼんやりとしていて、判別できなかったが、Kという女の人だと、なぜか確信していた。
「あ...!」
もうひとつ発見したことがある。
あれはいつのことだっけ、降り積もった落ち葉を誰かと一緒に、踏みしめながら歩いていた。
落ち葉を踏む、かさかさいう音がリアルだった。
あの夢でも、僕の隣を歩く人物の顔は分からなかった。
そうであっても、その人も「K」に間違いないと分かった。
この確信は勘違いなんかじゃない。
夢に登場した3人の女性は、「K」だ。
Kとの関係性は恐らく...いや、確実に、どう考えても、「恋人同士」のような雰囲気だった。
単に僕が覚えていないだけのことかもしれない。
はっと意識にのぼってきたこの発見に、僕の心は衝撃を受けた。
マックスだの、YKだの、Kだの...次々と登場してくる僕の知らない人たち。
僕を混乱に陥れる彼らに、腹がたってきた。
なぜって、僕は覚えていないから。
マックスとYKに関しては、夢にも出てこないし、全く思い出せない2人だ。
もっと混乱するのは、マックスと僕が同一人物かもしれないということ。
これ以上、考えるのはよそう。
頭痛が始まってきたようだから。
(つづく)
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