~ユノ35歳~
チャンミンのおかげだ。
もし、チャンミンから「姉さんと別れてください」とお願いされていたら、俺は喜んでBと別れ、正々堂々とチャンミンと会えるようになっていた。
でも、邪魔が無くなった途端、きっと俺たちは、早い段階で駄目になっていただろう。
「Bと別れないでください」のチャンミンの言葉と、俺の理性が、俺たちの恋の暴走を止めてくれていた。
そのはずだったのに。
~ユノ34歳~
声を掛けてくるアート関係者や大学の同窓生と、にこやかさを絶やさず歓談に応じていた。
さりげなく腕時計を確認すると、19:15。
閉館時間の19:00を過ぎても、彼らは帰ってくれない。
この雰囲気からすると、親交を深めるためだと言って、飲み屋へ移動する流れになりそうだ。
ここに来てから毎夜のように酒の場を連れ回され、俺は疲れていた。
早くこの場を去って、ホテルに戻りたかった。
チャンミンに会いたかった。
Bが来るのは3日後だから、ここで3泊するチャンミンの部屋で2泊分は眠ることが出来るし、その逆でもいい。
2週間以上ぶりのチャンミンをホテルに降ろして、そのまま会場に向かうつもりでいた。
ところが、太ももに頬ずりして甘えるチャンミンの姿に...そんな彼を見るのは初めてだったこともあり、抱きしめ彼の中に包まれたくなった。
甘えてくる彼が新鮮で可愛らしくて、抑えがきかず会って早々に抱いてしまった。
30分だと時間を区切っていたくせに、昂ぶったところをチャンミンに撫ぜられ、同様昂ぶった彼のものを目にしてしまったら止められるはずがない。
ひとまずこもった熱を逃すため手短に繋がって、お楽しみは夜へとっておくつもりだったのに。
掠れた高い喘ぎ声を聞いてしまい、異常に興奮してしまった。
ずるりと容易に俺を飲み込むチャンミンのそこについては、疑惑を差し挟まないようにしていた。
初めてベッドの上で及んだ行為だった。
真昼間のアトリエで、ソファの上で、べニアの床の上で、時間と来訪者のチャイムを気にしながらの情事ばかりだった。
これまでチャンミンに酷いことをしていたなと、彼が哀れに思えた。
・
この日、X氏が来場していた為、会場に来たいとねだるチャンミンに思いとどまるようにと止めたのに、彼はきかなかった。
日頃、感情を表に出さないチャンミンらしくない。
駄々をこねるチャンミンが、子供っぽくて可愛かった。
チャンミンは、俺に何かをねだることはほとんどないのだ。
・
抱き合った後、ごくまれに買い物に連れ出すこともあった。
デートらしいデートは、それくらいささやかなものだった。
俺の場合は、アトリエで使う日用品だとか買い足したい画材が、チャンミンの場合は、気に入りの作家の新刊だとか文房具だとか。
「欲しいものがあるなら、一緒に会計するよ?」と買ってやろうとしても、頑として首を縦に振らない。
でも一度だけ、売り場に立ち止まってえらく真剣に見ていたものがあった。
胸にあてて鏡に映していた後、値札を確認すると直ぐに棚に戻してしまった。
余程欲しかったんだろう、再びその陳列棚まで引き返してきて、広げては胸に当てていた。
その一連の行動を、俺は離れたところで全部見ていた。
「いいね。
俺も買おうかな?」
チャンミンの手の中のものを取り上げ、棚からももう一着取って、彼が何かを言う前に会計を済ませてしまった。
こうでもしないと、なかなか金を払わせてくれない子なのだ。
「俺とお揃いになるけど、いいかな?」
帰り道、助手席のチャンミンは「ありがとうございます」と頭を下げ、はにかんでみせた。
チャンミンの膝の上には紙袋があり、その中には揃いで買ったトレーナーがあった。
「こんなに高いもの...普段着にはできません」
紙袋を持つ手つきや、きっちりと礼を言う育ちの良いところに、じんと感動してしまうのだ。
俺はそんな子に恥ずかしい恰好をさせ、恥ずかしがる姿に欲情した。
チャンミンを抱いた時、上の洋服を脱がさないでいたのも、それがあの時買ってあげたトレーナーだったから。
新品の生地の匂いがしたから、マフラーと併せておろしたてなんだろう。
いじらしくて切なくなり、それを誤魔化そうと乱暴気味に腰を打ちつけてしまい、俺の下でチャンミンはひんひんと啼いていた。
・
「Xさんを見かけたら、隠れますから。
義兄さんの絵を見てみたいんです。
僕...ちゃんと見たことがないので...。
いいですか?」
電話の向こうで、チャンミンの言葉の語尾が消え入りそうだった。
「わかったよ。
受付で俺の名前を言ってくれたら、チケット無しで入れるようにしておくよ」
「やった!」
余程嬉しかったのだろう。
胸がじんと熱くなった。
確かにそうだろう。
俺たちが恋人同士らしい表情を見せられるのはアトリエに限られていた。
いつだったか、隣を歩くチャンミンが指を絡めてきたことがあり、「やめろ」とその手を払いのけたことがあった。
その時の傷ついたチャンミンの表情ときたら...。
見開いた眼と、茶色いその瞳が一瞬にして影で覆われた。
俺のささいな拒絶にショックを受けたチャンミンは、アトリエに戻らず自宅へ直行するよう言った。
あれ以降、外出中にチャンミンの方から接触してくることはなくなった。
可哀想なことをした。
一緒にいるところを見られても...アトリエの中でしていることは別として...変に思う者はいないはずだ。
ところが先日の、Mちゃんの言葉が耳に残っている。
『見る人が見れば、単なる親戚同士なんかじゃないことを気付くと思います』
そういうものなのだろうか。
閉場時間30分前にチャンミンが現れた。
異常にスタイルのよい青年だと目についたのが、チャンミンだった。
頭ひとつ分高い背と、長い手足。
俺とBとの結婚披露宴会場で、中学の制服姿で壁にもたれていた姿と重ねていた。
大きくなったな、と思った。
他のアーティストのブースを素通りして、ここまで直行してきたのか。
大きなストライドで、のびやかに歩いている。
俺を探しているのか、きょろきょろと周囲を見回している。
俺の正面には数人の招待客がいるせいで、ここに居るのにチャンミンは気づけずにいた。
選考会の審査基準について熱く語る旧友にひと言詫びて、チャンミンの元に歩み寄ろうとした。
ところが呼びかけた名前も、上げた手もそのままになってしまった。
あの作品の前で、チャンミンはぴたりと足を止めていた。
俺の前で初めてポーズをとった日。
毛布にくるまって両手でつつんだマグカップに、ふうふうと息を吹きかける表情が無垢で胸をつかれたんだった。
その場でスケッチブックを開くのははばかられて、チャンミンが帰宅した後、記憶を頼りに描いたラフ画だ。
口が開いてるぞ。
ぴんと立った両耳が赤くなっていた。
その姿だけで十分、伝わったよ。
俺に向けられた好意の言葉は全部、ホンモノだってこと。
絶対に傷つけたらいけない。
どれだけ大人顔向けの色気を見せても、10代の男の子なんだ。
「ユンホさん?」
腕を突かれ、ここでの会話をそっちのけでチャンミンだけを目で追っていたこと気付いた。
「すみません、なんでしたっけ?」
ところが、視界の隅にさっとかすめた光景に、ひやりとした。
心中で舌打ちした。
X氏がチャンミンの背後から近づき、不意打ちのように肩を叩いているところだった。
チャンミンの身体が大きく痙攣し、背後を振り向いた顔が驚愕のそれに変わった。
縦にも横にも大きな身体で、チャンミンの長身瘦躯が隠れてしまった。
「ユンホさん!」
今度は咎める口調で呼ばれ、意識を正面の者に戻した。
ぺらぺらと動く赤い唇を忌々しく思いながら、俺は愛想よく頷いたり笑ってみせた。
会話が全く、頭に入ってこない。
(あ...!)
二人は言葉を交わしている。
嫌な予感がした。
(つづく)
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