~チャンミン~
「ふう...」
手の平にかいた汗を、デニムパンツの太ももにこすりつけた。
溶けて角が丸くなった氷だとか、表面に浮いた水滴だとか、アイスコーヒーのグラスを意味もなく眺めていた。
夕方前のラウンジは客はまばらで、カジュアルな服装の自分は浮いているみたいに思えてきて、居たたまれなかったからだ。
予定では午前中には済ませているはずだった。
今日中に僕はクリーンになる。
義兄さんを見送った後、送ったメッセージの返信は早かったから、意気込んでいるうちに会って話して、ケリをつけて、それで解決...のはずだった。
観光でも、と義兄さんはすすめてくれたけれど、無事課題を終えるまでは落ち着かない。
もやもやと不安と緊張を抱えた僕は、この時間までホテルの部屋で過ごした。
問題集を開いてみたり、湯船に浸かってみたり、見たくもない映画を流してみたり、コンビニエンスストアで買ってきたサンドイッチを食べたりした。
無駄に時間をつぶした僕は、約束の時間まで30分前に下りていって、コーヒーラウンジの柔らかすぎるソファにこうして座っているのだった。
「ふぅ...」
深呼吸を3回したところで、肩を叩かれ、振り向くとX氏が立っていた。
いよいよだ。
・
一向に座る素振りを見せないX氏。
負けてしまった僕は腰を上げるしかなく、X氏はそんな僕に満足げな笑みを浮かべた。
X氏は僕を後ろに従え、ゆったりとした足運びでエレベーターホールに向かう。
密室で二人きりになりたくない。
でも、僕の気持ちを伝えて、そして踵を返して部屋を立ち去ればいい。
僕は男だし、X氏も大人だ。
乱暴なことはしないはずだ。
そんな僕の予測がいかに甘かったものだったか...。
・
この地に来る前日、僕はMと会っていた。
Mと会う時は大抵、X氏のカフェを使っていた僕らだったけど、彼に関係するものに怖気が走るようになっていて足が遠のいていた。
ファストフード店を待ち合わせ場所に、時間ぴったりに現れたMに僕は全部をぶちまけた。
X氏と1年以上に渡って関係を持っていること、行為の最中の写真を撮られたこと、そしていい加減関係を絶ちたいこと。
Mの耳に入れるべきことじゃない情報だ。
でも、僕の脱童貞の相手はMだったし、X氏を紹介したのもMだった。
そして、僕と義兄さんが関係を持っていることと、僕とX氏が関係を持ったことも知っている唯一の人だったから。
Mを責めたい気持ちは全くなくて、重苦しい思いを共有してくれる人が欲しかったのだ。
Mのことだから、X氏を紹介したことに罪悪感を持つかもしれない。
関係を断ち切る時の知恵が欲しかったこと、叱咤激励して欲しかった。
「ユノさんのことは、きれいさっぱり諦めた。
チャンミン...難しい関係でしょうけど、頑張って」
と、最後に会話を交わしたのは、先月頃だ(現在のMの異性関係がどうなっているのか知らない)
僕の話を全部聞き終えて、Mは目を見開き、丸く開けた口を片手で覆った。
「...ごめんなさい...私のせいね。
こんなの言い訳に聞こえるかもしれないけど。
Xさんって割り切った付き合いをする人で、面倒な人じゃないから...」
「...もしかしてMちゃんも?
Xさんと?」
「...一度だけだよ。
Xさん...よっぽどチャンミンが気に入ったんだね。
どうしよう...。
チャンミン...ごめんなさい!」
テーブルに額がくっ付くくらい頭を下げるMを、僕は止める。
「今すぐXさんを呼び出す。
止めてくれ、って言いに行く!」
「駄目だ!」
立ち上がるMの手首をつかんで制した。
「そんなことしなくていい。
Mちゃんになんとかしてもらおうと思って、話したわけじゃないんだ。
ただ...話を聞いてもらいたかっただけなんだ...」
「...チャンミン...」
Mはすとんと、椅子に腰を落とした。
「Xさんって...話して分かってくれる人かな?」
「チャンミンにXさんを紹介したのはね。
同じようにXさんと関係を持った知り合いの男の子がいたのよ。
テクも凄いし、欲しい時だけ会えばいい割り切った関係だし、おこずかいをくれたり...って。
...だから、チャンミンも大丈夫だと...そう判断した私が悪い」
「Mちゃんは悪くない。
僕が悪いんだ。
もうお仕舞いにする」
「...ユノさんは...知ってるの?」
「まさか!」
「そうよね。
ユノさんが知ったら...ショックを受けるでしょうね。
大変なことになるね、きっと...」
「大変なこと...?」
「ユノさんは...チャンミンのこと好きなんだよ、とても。
不倫はよく聞く話だけど、その相手が男子で、奥さんの弟だなんて、よっぽど好きじゃなければ付き合えないわよ」
「もし、知っちゃたら...義兄さん、どう思うかな?」
「ユノさんをよく知ってるわけじゃないけど...。
チャンミンのことを...嫌になっちゃうかもしれない。
曲がったことを許せない人。
あ!
ユノさん自身が奥さんを裏切っているわけだから...そうでもないか...。
曲がったことが嫌いなのに、それでもチャンミンと付き合ってるってことだから、やっぱり、チャンミンのことがすごく好きなんだよ。
うん、そうよ」
義兄さんは大人で、優しい。
曲がったことが嫌いなのに、1年以上も僕と会ってくれた。
Mは義兄さんのことを良く知らないから、僕のことを嫌になってしまうって予想してたけど。
僕が知っている義兄さんなら、僕の過ちを知ってしまっても...許してくれる。
そうであって欲しい。
・
「あらたまって話って何だい?
...何か飲む?」
「要りません」
拒絶の意志を込めて、僕はきっぱり断った。
計画外にも、僕はX氏の部屋にいた。
応接セットのソファに腰掛けていた。
義兄さんの部屋と同様、広くて高級そうな調度で整えられている。
「ふぅ...」
緊張をほぐそうと、X氏に気付かれないように深呼吸した。
グラスを2つ手にしたX氏は、僕の隣に腰掛けたりするから、僕はお尻ひとつぶん横にずれた。
僕の仕草に、X氏は大きな声で笑った。
グラスのひとつを勧められ、それがウィスキーか何かのアルコールだって察して、首を振った。
「僕は未成年です」
「...ユンホ君も」
義兄さんの名前を突如聞かされて、僕はX氏の方を振り向いた。
「そんなに驚いて...ユンホ君がどうしたんだ?」
僕の様子に、X氏はぎょろ目をもっと大きくさせて、驚き顔がわざとらしかった。
「...デキてるんだろう?」
ズバリ、言い当てられた。
「......」
「で...私とのお遊戯をお仕舞いにしたくなったんだね?」
「...はい」
「仕方がない」
X氏は、グラスの中身を一気に飲み干した。
「最後に一度、しようか?」
予想通りのX氏の答え。
でも、拒絶の姿勢を貫いて、ここを立ち去ればいいことだ。
「嫌です」
「これっきりにするから」
『最後』の言葉を、僕はこれっぽちも信じていない。
「嫌です!
もうお仕舞いです!」
「愉しんだよねぇ。
...何度も何度も」
愉しんだかどうかは...そうじゃないと言いきれないのが悔しい。
嫌なのに、すごく嫌でたまらなかったのに、X氏に征服された僕は、最中は我を忘れてしまっていた。
脇に垂らした手を、ぎゅっと握りしめた。
手の平に汗をかいている。
「......」
「ほんの子供だった君が、ずいぶんとまあ、大胆になってしまって。
おじさんは困ってしまったよ」
「...皆にバラしますよ?」
X氏を攻撃する言葉が、これくらいしか思いつけない自分が悔しい。
「そんなことして...いいのかなぁ?」
「...え?」
X氏は、にやりと笑った。
(つづく)
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