~ユノ34歳~
スタッフ一同を心配させていた立体作品は、昨夜遅く無事到着したようで、会場中心からぶらさがっている。
昨夜の俺はチャンミンとX氏に抱いた疑惑と不安にかられ、役目を放り出していた。
非常識極まりない行動だった。
運営委員の面々が集合し簡単な打ち合わせを終えたのちは、パーティまでの時間、それぞれ会場内に散る。
俺の場合は、自身のブースをうろついて、作品についての解説を求める客に応じる。
応対にひっきりなしになったかと思えば、暇になる時もある。
パイプ椅子に腰かけ、乾いた喉を水で潤し、会場を見渡すのだ。
X氏は会場のどこにも見当たらず、彼に会いたくなかった俺には好都合だった。
X氏と対面して、俺が言うべき言葉が見つからない。
チャンミンの件を示唆して釘を刺してもよかった。
自身の仕事の今後について、考えを巡らせた。
昨夜とってしまった失礼な態度を振り返った。
X氏が知ってしまったこと...俺がX氏とチャンミンの関係に気付いてしまったこと、そして俺とチャンミンの義兄弟を越えた仲のこと。
X氏の怒りを買ってしまった今、今後の仕事の大半は失うだろう。
いや...X氏は腹を立てるどころか、この泥沼に陥った俺を面白がっているかもしれない。
X氏について多くは知らないが、眼力強いぎょろ眼を思うと、陰湿で残酷な匂いを嗅いでしまう。
「はあ...」
会場を埋め尽くす大勢の老若男女。
この中にどれくらいの者が不倫関係に溺れ、のちに苦しんでいるのだろうか...との思いにふけった。
俺は今、決断を迫られている。
一心に俺を慕うチャンミン。
何も知らないB。
社交的で自身の欲に正直に生きるBだったから、俺は口を挟まず、彼女のしたいようにさせてきた。
互いに干渉せず自由な夫婦でいるからといって、自由に恋をしその者と関係をもっていいわけない。
Bと出会ったばかりの頃...そして結婚式の日を思い、Bの弟と密会を続けている今を思い、その差に眩暈がした。
Bとチャンミン姉弟を不幸にしかけている今、俺がすべきこと。
このイベントが終わったら、行動に移さないと。
答えは出ているのだから。
「はあぁ...」
背もたれに深くもたれ、天を仰いでため息をついたその時、光が遮られた。
俺は即座に姿勢を正し、俺を覗き込んだ人物...妻Bを振り仰いだ。
十数メートル上の天井から注ぐライトの光で、一瞬くらっときた。
寝不足のせいだ。
「お疲れのようね。
ごくろうさま」
「今日でようやく終わるよ」
俺は立ち上がり、ひとつしかない椅子をBに譲った。
「パーティまであと...」
腕時計を確かめて、「3時間もあるぞ?」
自身の思いと今後の身の振り方について、じっくり考えたかった俺は、早々と会場入りした妻に、咎めの口調に聞こえないよう神経を払った。
「ほら、昨夜電話で言ったでしょう?
話があったの、ユノに」
「ああ...」
そう言えばそんなようなことを、Bは言いかけていた。
「もう!
やっぱり忘れてたのね」
Bは俺の肩を軽くつき、その頬を膨らませた顔から、チャンミンの拗ねた顔を見たことがないことに気付く。
あったのかもしれないが、思い出せない。
チャンミンが見せる顔とは、デフォルトの無表情、俺を誘う妖しい眼差し、達した後の意識を飛ばした顔、照れて俯いた時のつむじ...それから、昨夜の泣き顔、不安と苦痛で潤んだ眼...。
笑顔は?
航空チケットを贈った時に見せた年相応の笑い顔。
よかった、笑顔の記憶が見つかって。
でも、記憶を探らないと思い出せないほどに、チャンミンを笑わせていなかったこれまでを思い知らされた。
チャンミンが可哀想だった。
妻が隣にいるのに、俺の頭に浮かぶのは決まってチャンミンのことばかりだ。
「何かに夢中になると、いつもこうなんだから...なんてね。
ユノはいつも、私を最優先にしてくれる。
ユノはいい旦那さんよ」
Bの発言に、俺はうろたえてしまった。
「ふふ。
褒められて驚いてる...」
笑うBに、チャンミンの面影を見つけてしまいそうだった。
「...話って何?
こんな場所でよければ、今聞くけど?」
Bが俺にしたい話の見当が全くつかなかった。
Bの口ぶりから、いつものあれが欲しい、こうしたいといった類のものじゃないようだ。
Bのワンピースの裾から伸びる、小さな膝とふっくらした白いふくらはぎから、目を反らした。
すくすく育った、贅肉のない細く長い、骨ばったチャンミンの膝下と重ね合わせてしまったからだ。
「こんなところでする話じゃないから、今はよしておく。
あなたも忙しいでしょうし...ほら、あそこの方、あなたに用があるようよ」
パンフレットを手にした老夫婦が、こちらの会話が終わるのを待っていた。
「イベントが終わったらでいいわ。
久しぶりの夫婦水入らずね」
そう言ってBは会場を後にした。
~チャンミン17歳~
ベッドに身を投げ、顔だけを横に向けてうつ伏せの姿勢でいた。
ベッドスローは床に垂れさがり、シーツもしわくちゃだ。
僕が抜け出たままの形の空洞をつくった毛布を引き寄せ、それにくるまった。
朝食を無理やり詰め込んだせいで、胃がむかむかした。
姉さんを抱く義兄さん...姉さんにキスをする義兄さん、姉さんへプレゼントを贈り、姉さんに甘い言葉を囁く義兄さん。
僕と義兄さんが出会ったのも、婚約の挨拶に自宅に訪れた時だった。
僕は階段の踊り場から、玄関に立つ義兄さんをこっそり観察していた。
僕らの出会いは遅すぎたのかな...と思いかけて、義兄さんと姉さんが結婚をしなければそもそも、僕と彼は出会っていなかった事実に思い至った。
僕はカタツムリのように身体を丸め、自分を抱きしめた。
じわり、と涙が浮かんできた。
苦しい。
この恋は苦しい。
全然、うまくいかない恋。
大好きな人と裸になって抱き合っているのに、まるで片想いのようだ。
ある人に密かに想いをよせる一方通行の恋...片想い自体が初めてだったんだ。
僕が初めて好きになった人...ユノさん。
前言撤回して、『姉さんと別れて欲しい』と言ったら、義兄さんは困るかな。
困るよね?
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]