「泣いてしまって...すみません」
アオ君はおしぼりで目元を押さえて、「すみません」と頭を下げた。
「謝らなくていいよ。
アオ君の気持ちを知られてよかったよ」
大人2人が高校生男子を泣かせているようにしか見えない図に、店員さんはグラスの水を追加しに行っていいかどうか迷っている風だった。
「あ~あ、スッキリしました」
ひとしきり泣いていたアオ君の涙がようやく止まった。
僕らがこのカフェに入って2時間ほどが経過していた。
「気が楽になったら腹が減りました」
「俺も甘いものが欲しいな」
そう言い出した夫とアオ君のために、ピザとケーキを追加注文した。
夫がトイレに立った時、僕はアオ君を手招きして小声で尋ねた。
「どうして僕だけの時はタメ口なわけ?
ユノがいる時はちゃんと敬語を使えているよね?」と、ずっと気になっていたことを追求してみた。
「敬語にして欲しいのなら直すけど?」
「今さら、いいよ」
「よその家は知らないけど、俺んちでは敬語は使っていない。
その流れで、チャンミンに対してタメ口を使っちゃってたんだよなぁ。
ただそれだけ」
アオ君は届いたケーキを前に、「やっぱチョコの方がよかったかなぁ」とつぶやいている。
「ユノの時は敬語じゃないか」
「真っ先に俺の事情を分かってもらわないといけなかった人だからだよ。
初対面で『ちぃ~っす』って、タメ口で近づけないでしょ?」
「...確かに」
「ユノさんの話を聞く限り、チャンミンってホント、可愛い奴なんだ。
会ったことがないのに、年下感が強いっていうの?
...それで俺、しみじみ思ったんだ」
「何の話?」と、手洗いから戻ってきた夫が席についた。
「ユノさん、おかえり。
ちょうどお二人への接し方についての話をしていたんですよ」
アオ君の言葉遣いはころりと敬語に戻っていた。
「ユノさんもチャンミンさんは僕の両親と同一だから、一緒にいて混乱するかもしれない、って思ってたんです。
でも、そんなことはなかった。
ああ、そうかぁ、この世界にいる限り、ユノさんとチャンミンさんは『兄さん』みたいな存在なんだぁ、って」
アオ君にそう言われてしまってちょっと寂しかったけれど、僕の方も同じような感情を抱いていたからおあいこだった。
なぜなら、僕にとってアオ君は、弟、もしくは従兄弟くらいの距離感でいた。
(夫の血縁者程度に思っていたところ、アオ君から僕の気配を見つけてしまったから、僕はわけが分からなくなったのだが)
確かに僕はアオ君の身の回りのことに干渉したがった。
恐らく夫は、僕がアオ君に感情移入してしまい、遺伝学的に『息子』だと知った途端、アオ君を手放したくなることを恐れたのだと思う。
だから、真実を伝える機会をうかがっていたのだ。
夕飯はコース料理だというのに、僕ら3人は大きなピザとケーキをもぐもぐと消費していった。
ふと顔を上げた時、向かいのテーブルを片付けていた店員さんと目があい、笑顔で会釈された。
さっきまで泣いていたアオ君が笑顔に戻ったことに、店員さんはホッとしてくれたのだろうな。
「両親の写真を見せてよ」
「いいですよ」
アオ君が見せてくれたスマートフォンに、2人の男性が映し出されていた。
当然だけど、今の僕たちを約30年分老けさせた姿をしている。
彼らと僕らが決定的に違うのは、血を分けた子供の有無だけではなく、親の目をしているか否かだ。
夫から「チャンミンはママの顔してるぞ」とからかわれ、ムキになった僕は「ユノこそ『若い頃さんざん悪さをして、遊んできました』風オヤジの顔してる」と言い返した。
「あ!」
ユノ側の父親の耳で、例のピアスが光っていた。
「大事にしているのを知っていたから、困らせようと思ってくすねてきたんですよねぇ、これ」
アオ君は自身の耳に装着したピアスを指さした。
「ったく、やることが子供だね」と、夫は呆れたようにため息をついた。
「アオ君と一緒に映っている写真はないの?」
するとアオ君は顔を曇らせた。
「ありません。
両親と一緒に写真なんて、絶対に嫌だったから。
でも、帰ったら撮ろうと思ってます。
それから...」
アオ君はアクセサリーケースに手を伸ばし、自身の方へと引き寄せた。
「これは貰ってゆきます」
「え?」
僕と夫が目を丸くしていると、アオ君はこう言った。
「チャンミンさんが両耳分買っていたので、貰って帰ろう、って狙っていたんです」
「ちゃっかりしてるね」
「このピアスはあっちの僕の世界と、こっちのお二人の世界とを繋いでくれるんですよ。
凄くないですか?」
得意げに話すアオ君を前に、僕と夫は顔を見合わせ苦笑した。
・
アオ君はその後2週間ここにとどまり、楽しく過ごしたのち、「じゃあね」と帰っていった。
駅前のロータリーで別れた。
2つの世界を繋ぐ扉など存在せず、あちらの世界へと意識を集中させると、肉体と共に移行できるのだそうだ。
分かったような分からないような...
「行きより帰りの方が簡単です。
待っている人がいますから」
衣食住の大半を僕らの家に頼っていたおかげで、荷物は少なくて済み、小さなバッグひとつにすべてまとまった。
「もう会えないの?」
「チャンミンさん、泣いてるんですか!?」
「...っ、くっくっ...。
寂しいよ。
ずずずずー」
僕はアオ君から手渡されたティッシュペーパーで鼻をかんだ。
「夫夫の危機の時、登場してあげますよ」
「ホントに?」
「赤ちゃんの姿になって、お二人を困らせてやりますよ」
「赤ちゃん!?」
「どこか別のパラレルワールドに生きる赤ちゃんの僕、っていう意味です」
「どんなアオ君でもいいから、遊びに来てね」と、かなり本気で僕は頼んでいた。
「できれば、今のアオ君がいい」
「考えておきます」
離れがたくていつまでも留まる僕らに、「きりが無いから、お二人は行っちゃってください」とアオ君は、しっしと手を振った。
立ち去る僕らにアオ君は手を振り、振り向いても振り向いても、まだ手を振っていた。
最後に振り向いた時、アオ君は消えていた。
・
アオ君を見送った後の帰り道は、久しぶりの夫夫水入らずのデートとなった。
コーヒー豆のちょっといいやつと、コーヒーのお供にと小さなケーキも買った。
人通りが途切れた時、ぽつりと夫がつぶやいた。
「寂しいな」
「うん」
「あっという間だった」
「うん」
アオ君がやって来た頃の自分を思い返していた。
この暮らしは正しいか正しくないかを、自分に問いかける日々だった。
こんな暮らしでいいのか、夫には不満はないけれどなぜかため息が出てしまっていた。
僕は全てを持っているのに、既に手にしたあれこれに飽きてしまっただけのことだ。
2人きりの暮らしは、余程のことが無い限り淡々と続くだろう。
僕らが男同士だから、と言うのは関係ない。
結婚しているか否かも関係ない。
愛する人を前にして、5年後10年後、30年後50年後を想像した時、隣にいるのは彼だけなのか。
「もし...」
「もしも」に続く次の言葉は何?
子供がいればよかったのに、と言いたかったのか?
それは違う。
僕と夫は今、この世界に生きている。
もし僕ら夫夫がアオ君たちの世界にいたのなら、もしもアオ君という子供をもうけることができなかったら?
可能性があるからこそ、得られた時の嬉しさはひとしおだし、同時にそれが叶えられないと分かった時の絶望は想像したくない。
でもこの世界にいる限り、それらは杞憂に終わる。
・
別れの前夜、アオ君と最後の夕飯を我が家で摂っていた時の会話だ。
「当初の予定では、サクサクっと用事を済ませたらサッと帰ってしまうつもりだったんです。
でも、居心地がよくて長居してしまいました。
ユノさんが、正体を明かすのは待って欲しい、と言ってくれたおかげですよ。
『息子』だと知られたら、そういうつもりで扱われてしまうでしょう?」
「タイムスリップの怖さは、選択肢次第で未来が変わってしまうことだね。
生まれるべき命が無くなったり、新たな出会い...。
朝ご飯に何を食べたかどうかでも、未来は変わる」
と、しみじみ語る夫に、「そう思うとタイムスリップって怖いね」と僕は答えた。
「でも、ユノさんたちがどんな選択しようとも、どこかのパラレルワールドでは僕は誕生します。
僕の存在は確実なのです。
万が一、お二人が離れ離れになってしまったとしても、お二人の遺伝子を受け継いだ僕は現在進行形で生きています。
それがどれだけお二人の心の支えになるかは、想像するしかありませんけど、悪いものじゃないと思います。
どうです?
僕はお二人の過去にも、現在にも、未来にもいるのです。
お二人は同一ですから、別の並行世界であっても、互いに惹かれ合い共に年を重ねる人生を歩むのではないでしょうか?
お二人がどんな人生を送るのか、僕はこの世界の住人ではないので見届けることはできませんけど。
でも、もうひとつの世界では少なくとも58歳までは共に暮らしていることは事実です。
ひとつの参考にしておいてください」
アオ君の両耳にピアスが光っている。
どちらが僕らのピアスなのか区別がつかなかった。
(おしまい)
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