~欲しいのは指だけ?~
小さな車を運転して、僕はばあちゃんちに戻った。
ユノはレジ袋から水筒とローションボトルだけを抜き出すと、「じゃあな」と僕に手を振って廃工場へ入ってしまった。
ユノの正体についてさっぱり分からないことばかりだけど、少しずつ聞き出せばいいや、と思った。
ユノと抱き合えるのなら、今は満足だ。
食料品を冷蔵庫におさめた後、着古したジャージに着替えて車庫に向かった。
見上げると確かに、錆びきった波トタンからいくつも光が漏れている。
ばあちゃんちは古ぼけていて、どこもかしこも壊れているんだ。
車庫内の物置棚の片づけに取りかかった。
雨水でふやけきった段ボール箱は、抱えるだけで底が抜けそうだった。
絶望的な状態なもの以外は、収納ケースへ中身を移しかえていく。
「あ...」
箱の底から発見されたのは、カビだらけになったワインレッドのハンドバッグだった。
亡くなった母の持ち物だ。
地域で行われた納涼祭りの帰り道のことだ。
両親と僕が乗った車と、対向車線を大きくはみ出した時速120キロの車とが正面衝突した。
この辺りの道路はS字カーブが続く峠道で、運転テクニックを試したい走り屋たちの格好のコースになっている。
100メートル後方の橋の欄干にぶつかるまで押された後、レスキュー隊が到着するまで持ちこたえられなかった僕らの車は、15メートル下の河原に落下した。
引き上げられた車内には父の遺体と瀕死の母だけで、後部座席にいるはずの僕がいなかった。
車外に放り出されて川底に沈んでしまったのだと落胆の空気が漂ったが、河原の灌木の陰に、丸まって眠る僕が発見された。
額を切って頬やシャツを赤く染めていたが、それ以外は無傷だった。
どうやって車外へ出られたのか、と大人たちは首をかしげていた。
衝突の瞬間、車外に放り出されたのでは、とか、墜落する前に自力で窓から抜け出したのではとか、結論付けられた。
前髪の生え際には、その時の傷跡が残っている。
小学生だった僕は、事故直後の混乱ぶりをなんとなく覚えている。
点滅する赤いランプと、クレーン車がたてる轟音、駆けつけたばあちゃんの叫び声。
病院の床に土下座をする青年たちに、怒号を浴びせる親せきの伯父さん。
輸血液が足りないと、近所のおじさんやおばさんたちが駆り集められていた。
同級生のお母さんたちの、沢山の同情の言葉。
母は2日後に息を引き取った。
僕の母は、ばあちゃんの娘にあたる。
僕の親代わりとなったばあちゃんは必死で、娘の死を悲しむ間もなかったと思う。
思い出を封印するため、目につく場所から母の持ち物を一掃した。
ばあちゃんは、何もかも段ボール箱に詰め込んで、車庫の片隅に押しやってしまった。
これら車庫に積み上げられ、10年以上放置されたものを、僕は片付けている。
今僕の手の中にあるハンドバッグを、河原で発見された当時、僕は胸に抱きしめていたそうだ。
このバッグのことを、今の今まで忘れていた。
ばあちゃんったら、形見に近いこのバッグまでこんな場所に置いていたなんて。
思い出を詰め込んだ収納ケースを僕の部屋の押入れまで運び、ごみ袋は車庫の脇にまとめた。
開け放った居間の掃き出し窓に腰かけ、よく冷えた缶ビールをあおった。
生まれ育った懐かしい家にいるのに、もっとばあちゃんを気遣わなければならないのに、ユノのことばかり考えていた。
数時間前に別れたばかりのユノが、恋しくてたまらなかった。
今日一日で、3度もユノに絞り取られた僕だったから、さすがにもう下半身の疼きはない。
それでも、ユノに会いたかった。
「チャンミンが作ってくれたのか?」
「うん。
さすがに猪鍋はキツイと思って」
ばあちゃんは美味そうに、肉野菜炒めとわかめスープを食べてくれた。
食後、ばあちゃんにお茶を淹れてやりながら、さり気なく質問した。
「ばあちゃん、Tさんの鉄工所ってあっただろ?
借金があったとか、後継ぎがいないとかの理由で、廃業したところ」
熱いお茶をゆっくりと飲みながらばあちゃんは、思い出そうと視線をさまよわせていたが、何度か頷いた。
「ああ、そんなことあったね」
「あそこって、今誰か住んでたりする?」
「やっと引っ越してきたのか?」
「やっと?
どんな人?」
「さあ。
芸術家だか、その後援者だかが、買い取ったって噂だよ。
作品を作るのに、ああいう広い建物がいいとかって、アトリエにするんだと。
でも、ずいぶん前の話だよ。
買ったものの、不便なところだから住むのは諦めたんだろう、ってみんな話してた。
あそこがどうした、チャンミン?」
「いや、あそこの前を通りかかったから」
廃工場を購入したのはユノなのだろうか?
「その誰かが買ったって、いつの話?」
「そうだねぇ...」
ばあちゃんは思い出そうと、しばらく目をつむって唸っていたが、
「10年は昔の話だよ」
と言った。
10年か...。
その誰かが買ったあの建物を、ユノは借りるか買うかするつもりなのだろうか。
ユノの愛車といい、彼は経済的に余裕がありそうだ。
謎だらけのユノ...色気の塊みたいなユノ...。
ユノに会ったとたん、肉体の全てを捧げ出したくなってしまう僕。
わずか2日で、僕はユノにのめりこんでいる。
ユノに会いたかったけど、今夜の僕の下半身はもう、使い物にならない。
心の通い合いはまだ、ない。
ユノに差し出しているのは、僕の身体だけ?
僕が欲しいのは、快楽をもたらすユノの手指だけ?
そう言いきれない自分がいた。
翌日。
廃屋レベルに壊れかかった車庫を、少しでもマシな状態にしようと、ごたごたと放置されたガラクタを片付けることにした。
軍手をはめて、劣化して穴のあいたプランターや、廃棄しそびれた灯油ストーブ、僕がかつて使っていた子供用自転車など、もっと早いうちに捨てるべきだったものを、取り除いていく。
斜めにぶら下がってしまった波板トタンを、真っ直ぐに直そうとした時、
「あっつ!」
トタン板の鋭くめくりあがっていた箇所に、腕をひっかけてしまった。
カッと熱い激痛が走った後、スパッと切れた傷口から血が流れた。
ばあちゃんは酷く心配して、医者に診てもらえと譲らなかった。
診療所で消毒をしてもらい、その後、ばあちゃんの買い物に付き合ってやった。
遠くのホームセンターまで向かって、雨漏りする屋根の応急処置として養生シートなどを購入した。
その帰り道、昨日遭遇した同級生につかまって食事に誘われた。
解放されたときには夕方になっていた。
「飲みに誘われちゃって」と、ばあちゃんに電話を入れる。
「帰りは?
車は運転できないだろう?」
「飲めない奴も一緒だから、送ってもらうよ」
ユノに会いたくてたまらなかった僕は、はやる気持ちを抱えて廃工場へ向かったのだった。
夕暮れから夜への狭間の時刻で、足元はまだ明るいけれど、建物を囲む木々は闇に沈んでいる。
ここには外灯などないから、グローブボックスから懐中電灯を取り出した。
廃工場に繋がる小道脇に車を停めると、蛙の鳴き声に包まれ、手足に群がる羽虫をよけながら、砂利道を歩く。
既に僕のあそこは熱くなっていた。
いやらしい奴だ。
なんて僕は、いやらしい男なんだ。
やりたくてやりたくてたまらないだけの、性欲の塊だ。
ユノを求めるこの感情は、肉欲によるものだけなのか?
今の僕がはっきりと言い切れることは、とにかくユノに触れたいということだ。
・
シャッターが下まで閉まっていた。
工場脇を見ると、ユノのX5は停まっている。
裏手まで回って裏口のドアのノブをまわすと、開いた。
(よかった)
ホッとして足を踏み入れたが、中は真っ暗だった。
暗くて当然だ、電気が通っていないんだから...。
いや、違う。
ユノが僕に冷たいミネラルウォーターを投げて寄こしたことを思い出した。
あちこちに横たわる鉄の塊に、ぶつかったり脚をひっかけたりしないよう、懐中電灯の乏しい灯りを頼りに進んだ。
薄闇の中で冷蔵庫の白が浮かび上がっている。
電源が来ている...ということは、電気工事は済んでいるのか。
冷蔵庫の扉を開けようとした時、
「!」
僕の肩に手がかかった。
その力強さに、一瞬で体の向きが180度変わって、背後にいたユノと対面した。
「びっくりした!」
足音もしなかったし、気配も一切感じられなかった。
「そろそろ来るんじゃないかと、思ってたんだ」
懐中電灯の灯りに照らされて、ユノの眼が赤く光っていた。
「眩しいよ」
「ごめん」
ユノの顔に向けていた懐中電灯のスイッチを、慌てて切った。
途端に視界が暗くなって、ユノの顔もぼんやりとしか判別できなくなった。
ユノの腕を掴んだ。
暑いくらいの気温なのに、ひんやりと冷たい肌だった。
(もう...駄目だ...我慢できない...)
自分の方に引き寄せて、ユノの首筋に吸い付いた。
ユノの冷えた皮膚に、僕の体温は吸い取られていく一方のはずなのに、欲にかられた僕はどんどん熱くなっていく。
反して、ユノは口角だけを上げただけの微笑みをたたえている。
首筋から唇を離して、間近に迫ったユノの表情を窺った。
暗くて瞳の色はわからないけれど、しんと醒めた眼差しをしているのだろう。
「そんなに俺に会いたかったの?」
ユノの手の平が、僕の耳のうしろに差し込まれた。
僕は頷いた。
「得体のしれない不気味な俺でも...。
チャンミンは、いいわけ?」
いいのか、悪いのか、そんなこと今はどうでもいい。
ユノの腕をとって、奥に据えられた白いマットレスを目指す。
何が何でも今すぐ、ユノによって乱されたい焦燥に駆り立てられていた。
昨日、ユノのX5の中でもたらされた、狂気に満ちた快感をもう一度味わいたかった。
ユノが漂わす香りがあまりにも甘くて、酔っぱらったかのようになった僕は、鉄くずのひとつに足を引っかけてしまった。
(危ない!)
大きくつんのめってしまい、転倒する間際に、鉄骨にしがみついた。
廃工場を斜めに横切るように放置された、巨大な鉄骨だ。
僕はそれにしがみついた。
ひんやりとしていて、ざらざらした表面、鉄臭さ。
背中から抱きしめられた。
ユノは僕のウエストに腕をまきつけて動きを封じると、僕を振り向かせ唇を覆いかぶせた。
「ふ...ふっ...」
ユノの唇に重ねる。
軽く触れて、すぐに離す。
また重ねる。
(つづく)