「インラン?」
「うん。
滅茶苦茶気持ちがよかったんだ。
初めてだったんだよ?」
「......」
僕はユノの腕の中で一回転して、彼と向かい合わせに座った。
ユノはぽかんと口を開けていた。
白い肌に、そこだけ紅色に色づいた唇が、Oの字になっている。
ふふふ。
そんな間の抜けた表情が、たまらなく可愛らしく僕の目に映っている。
僕の話の展開についていけなくても当然だよね。
『不能』になった経緯の途中で、『淫乱』なんていうワードが飛び出したんだもの。
「よだれを垂らすくらい気持ちがよかったんだ」
ユノは片膝を立てると、人参スティックを摘まんで口に運ぶ。
シャクシャクと咀嚼しながら、視線は僕から離さない。
「チャンミンを運んだ3人の男とも、ヤッたのか?」
「...うーん、多分」
「『多分』って!?
覚えていないのか?」
「部屋は暗いし、皆裸だし...僕もね、自分で脱いだのか脱がされたのか...。
何か特別なお香でも焚かれていたのかなぁ。
ふらふらのメロメロ気分。
あそこには棒と穴しかない。
快楽を追求する空間だったんだ」
僕は目を閉じて、当時のあの場所のあの映像を、頭に思い浮かべながら説明した。
赤い照明、そちこちに置かれたソファやベッド、エキゾチックな装飾のパーテーション、天井から下がるシフォンの布は、透けていて間仕切りの役を果たしていなかった...。
「そのクラブの名前は憶えているか?」
僕は首を振った。
「精魂尽き果てるまで、僕は没頭した。
3人の男の一人が『彼女が待っているよ。帰りなさい』と声をかけるまで、僕はドロドロになっていた。
前も後ろも...僕の下半身のことだよ...快感の余韻が凄くてね。
エレベーターを上がって出たそこは...驚いた...酒をしこたま飲まされたクラブだったんだ」
ユノはひとりで、野菜スティックのパックを平らげてしまっていた。
「彼女とは、どうなったんだ?」
「ホテルに戻った時は、朝方で、僕はフラフラだった。
彼女は泣き腫らした顔をしていた。
心配して当然だよね、物騒な大男たちに彼氏が連れ去られて。
僕はひどい恰好をしていた。
真冬なのに、コートも着ず、ジャケットも着ず(クラブに置いてきたんだろうね)、しわくちゃのシャツだけで。
全身べたべただったから、僕はお風呂に直行した。
僕を介抱する彼女の目が、僕の身体に釘付けになっていて...そこで気付いたんだ。
全身、あざだらけだったんだ。
『警察に通報しましょう!』と、彼女が電話をかけようとしたのを、僕は止めた」
「あざだらけ、って、つまり...?」
「うん。
キスマーク」
「...それから?」
「彼女とは別れたよ」
「...そうなるだろうなぁ」
「僕の身体はね、挿れる側から挿れられる側になってしまったんだ。
あの夜を境にね」
「男が好きになったっていう意味じゃないんだろう?」
「うん。
とにかく後ろを埋めて欲しいんだ。
暴力的な欲求だ。
例のクラブに通うようになった。
警察へ連絡する彼女を止めたのは、あの場所を守りたかったからだよ」
「チャンミンの知られざる性癖が、あそこで暴露された。
エロスのボタンが押されてしまって、チャンミンは暴走したんだな。
でもさ、この件を思い出すだけで恐怖を覚えるのは、なぜ?
気持ちがよかったんだろ?」
この辺の説明が少しばかり難しい。
ニュアンスがちゃんと伝わればいいんだけど。
「もうね、凄かったんだから。
僕の魂は下半身の...あの一点だけに宿っているみたいだった。
仕事どころじゃないんだ。
ずーっと『そのこと』ばっかり考えているんだよ?
そんな風になってしまった自分が怖かった」
「そいつは、辛いなぁ」
「ユノも今がそうでしょ?
昼も夜も、男も女もって...昨日言ってなかったっけ?」
ユノはがくっと首を折って、「はあ」と深いため息をついた。
ユノの黒髪のつむじが可愛くて、頭を撫ぜてしまいそうになるのを我慢した。
今夜のユノは昨日より親近感があって、彼の何もかもが可愛らしく僕の眼に映っていた。
なぜだろう?
「俺は『淫乱』じゃない。
下半身が『強い』だけで、チャンミンみたいに溺れてはいない」
ユノったら、威張った風に言うんだから、可笑しくてクスクス笑ってしまった。
「そいつらは最初からチャンミンが目当てだったんだ。
秘密クラブのメンバーの一員として、抜擢されたんだよ。
素質があるって」
「...抜擢ねぇ。
2晩とおかずに通ったからなぁ...メンバーか...そうなるよね」
定時きっかりに退勤して、一直線に向かったのはあのクラブ。
ふらふらになるまで快楽に溺れて、朝方になって帰宅して、シャワーと着替えを済ませて出社して。
当時の僕は、眠りを忘れていた。
「実はね、ユノ。
別れた彼女とは結婚を前提に、真面目に付き合っていたんだ。
あの日、クリスマスだったか誕生日だったか、何を祝おうとしていたのか、思い出してみた。
お祝いじゃなくて...その...」
「プロポーズ?」
「うん」
「結婚したいくらい、愛してたのか?」
「...多分」
「『多分』?
ずいぶん、あやふやだなぁ」
そんな大事な日のことを忘れていた。
「『恐ろしい体験』って言ってた理由が分かったよ。
チャンミンって、真面目で真っ当な人間だったんだろ?
それがさ、ひと晩で身を滅ぼすほどエロスに支配されただろ。
結婚まで考えてた彼女を、ぽいって捨てただろ」
『捨てた』の言い方は酷いけれど、ユノの言う通りだった。
この人となら将来を共に歩んでもいいと、かけがえのない存在だったはずなのに、たったひと晩でその思いは霧散して、彼女の存在を忘れた。
所詮、その程度の愛情...ありとあらゆる条件を考慮した末、僕の理想像にまあまあ近かっただけ...だったんだろうな。
「肝心なことを聞き忘れていたよ。
その頃から添い寝屋をしていたのか?」
「ううん。
添い寝屋を始めたのは、『不能』になってからのこと」
「淫乱状態で会社勤めは辛かっただろうに...。
...チャンミン...お前って、面白い奴だなぁ」
「面白いだなんて、酷いよ。
僕の中の常識がひっくり返る、恐ろしい体験だったんだ。
ほら、手が震えてる」
小刻みに震える僕の指先を、ユノはじっと見つめていた。
「あっ!」
ユノったら、僕の指をぱくりと咥えたんだ。
ユノの中は、火傷するかしないかのギリギリの温度のスープのよう。
手を引き抜こうにも、僕の手首はユノの力強い指にがっちりと拘束されていた。
「乱交クラブでの経験が、いずれ『不能』に繋がるわけなんだ?」
「...うん」
ユノの熱々の舌が、僕の人差し指にくねくねと絡みつく。
指の股を舌先でちろちろとくすぐられ、
「...あっ...」
お尻の辺りが、ずくんと痺れた。
なんだろ、この感じ。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
ユノの目尻がにゅっと細くなっているから、きっと僕の反応を面白がっている。
「チャンミンの話は、折り返し地点まで来た?
その続きは?」
「今夜はもう疲れたから、話したくない」
僕はクタクタだった。
記憶を辿り、当時の感情を追体験し、知り合って2日目のユノに、僕の恥と恐怖を暴露した。
ベッドカバーの上に並んだ食べ物は、ほとんど手を付けられないまま残っている。
僕はベッド下に手を伸ばして、ビニール袋の中を探った。
「飲みましょうよ」
僕の指を咥えたままのユノに、缶ビールを突き出した。
「僕の指...そんなに美味しい?」
ユノはじゅるっと音をたてて吸ったのち、「うん」と答える。
ユノの唇...ぽってりとした下唇...のやわらかさに、再び僕の腰の奥が、痺れた。
「...んんっ...」
変な声が出てしまった。
空いている方の手で、口を塞いだ。
僕の反応にユノは、
「チャンミンの指...アイスキャンディーを舐めているみたいだ」
そう言って、弥勒の微笑を浮かべた。
(つづく)
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