〜C〜
僕はひどい男ですね。
僕がいないと駄目な男にしてしまっていますね。
安心してください。
僕はあなたから離れませんから。
怖い夢を見たら、僕はたちまち目を覚まして、貴方を抱きしめてあげますから。
~ユノ~
ふと、習い事がしたくなった。
急にそんな考えが、浮かんだ。
チャンミンとの待ち合わせ時間より早く到着した日のことだ。
ふらりと入った閉館間際の図書館で、目に留まったちらしをパンフレットスタンドから1枚抜きとった。
いつものベンチに座って『市民講座のご案内』のちらしに目を通す。
料理教室、ダメ、英会話、ダメ、アロマテラピー、ダメ、ヨガ、ダメ。
「今日は早いんですね」
集中していたから、彼がやってきたことに気付けなかった。
彼は、隣に座って俺の手元を覗き込む。
「習い事ですか?
いいんじゃないですか?」
「チャンミンもそう思う?」
「あなただったら...そうですねぇ...。
初めてのデッサン講座ですかね」
「俺が...デッサン?」
致命的に絵が下手くそなことを知っていて、勧めてくるチャンミンはさすがだ。
「習えばマシになるかなぁ」
「なりますよ。
いつか僕の顔を描いてくださいねー」
『いつか』
なんて甘やかな、幸福な響きだろう。
「何年かかるかなぁ?」
「何年でも待ちますよ。
僕にはたっぷり時間がありますから。
僕の絵を描いて見せてください」
それが叶わないことを、俺は知っている。
・
市民会館の一室で、週に一度の市民講座が始まった。
スケッチブックとデッサン用の鉛筆、練り消しゴム。
これらを入れるバッグも、チャンミンと一緒に選んだ。
気合が入っていた。
今ここで何か新しいことを始めないと、自分はダメになると切羽詰まっていた。
講習生は20人ほどで、講師も市内で絵画教室を開いているという、優しそうな女性だった。
教室をざっと見渡すと、20代から60代まで様々で、夜7時のクラスだということもあり、俺のようなスーツ姿の者が半分。
長テーブルに2人ずつ席につく。
初回の課題は、めいめいが持参したものをデッサンした。
勤め帰りだから、通勤バッグに入れられるものは限られている。
つぶれないようタッパーに入れたものを取り出していると、「あっ!」という声が。
隣席の男性が、ひどく困った顔でティッシュに包んだものを凝視している。
その様子を見つめる俺に気付くと、彼は肩をすくめて手の中のものを見せてくれた。
「つぶれてしまいました」
ティッシュの中には、無残につぶれたピーマンが。
「困りました」
他の生徒たちはバナナだとか、化粧ポーチだとかのデッサンを始めている。
「俺のものでよければどうぞ。
沢山ありますから」
そう言って、タッパーの中のイチゴをすすめた。
「美味しそうですね」
「食べるのはデッサンの後にしないとな」
そう言ったら、彼は肩を小さく震わせて笑っていた。
清潔そうで、穏やかそうな人だというのが、第一印象だった。
きれいな歯並びをしていたし、ペンケースや鉛筆を取り扱う所作が丁寧だった。
ティッシュでくるんだだけのピーマンを、バッグに入れたらつぶれるだろうに。
きちんとしていながらも、ほんの少しの隙がこの人の魅力だと思った。
誰もが無言で、鉛筆が紙をこする音の中、テーブルの間をぬって講師が、一人一人に的確なアドバイスをする。
「しょっぱなから難しいものを選びましたね」
「そうなんです。
じゃがいもみたいになってしまいました」
イチゴを描くのは難しかった。
種を描こうとすればするほど、無数に穴が穿たれた塊になっていく。
隣を見ると彼も苦戦していて、俺以上に下手くそで、小さく吹き出してしまった。
「笑いましたね」
彼は素早く両手でスケッチブックを隠したが、彼の両耳が真っ赤になっていて、さらに俺は吹き出してしまった。
講師のお姉さんは、俺と彼を前にお手本を見せてくれる。
「種を描こうとするのではなく、種の周囲の盛り上がった部分...光が当たっているでしょう?」
彼が黒く塗りつぶしてしまった箇所を、練り消しゴムで軽くこすり取る。
「わぁ...」
一気に立体的なイチゴになって、俺と彼は顔を見合わせる。
「光に注目してくださいね。
光を作れば、おのずと凹んだ部分ができますから。
影になっているからといって、黒く塗りつぶしちゃだめですよ」
すとんと納得できて、何度も頷いた。
講座が終了し教室を出た俺は、彼を見てまた吹き出すこととなった。
彼は手の平にイチゴをのせたままだった。
「これ...食べてもいいですか?」って。
・
自然な流れで、駅までの道のりを彼と並んで歩くことになった。
ぽつりぽつりと、自己紹介に近い会話を交わした。
30代だろうか。
チェックのシャツに細身のデニムパンツとラフな格好だった。
着飾った感じはしないからアパレル系ではなさそう。
チャンミンみたいに背が高い人だった。
(そうなんだ。
なんでも、チャンミンが基準なんだ)
「僕はこういうものです」
別れ際、彼から名刺を渡された。
俺は息をのんだ。
「シムさん?」
「そうです」
何か言いたげな彼の表情に気付いて、俺も名刺入れを取り出した。
彼は両手で受け取った俺の名刺をしばし、眺めていた。
「また来週」
「来週の講座で」
互いに軽く手を振って、駅前で別れた。
今夜は会えないとチャンミンには伝えてあった。
明日、上手く描けたイチゴの絵を、チャンミンに見せてあげよう。
・
デッサン講座の後に、シムさんとコーヒーを一杯飲むのが習慣になった。
ゆったりと落ち着いた物腰と、安心させてくれる低い声。
力が入っていた肩のこわばりがとけていった。
襟足の髪が、くるんと内巻きになっているのが可愛らしいと思った。
一週間が待ち遠しかった。
・
チャンミン...。
ごめん。
気になる人ができた。
ごめん。
(つづく)
【追記】
※不幸の香りが漂うこのお話。
何度も書いていますが、語り手であり主人公のユンホ(ユノ)を信じてください。
主人公はユンホ(ユノ)です。
このお話は、ユンホ(ユノ)の幸福を祈って書いたものです。
・
『水彩の月』も同様で、語り手であり主人公のチャンミン(シムチャンミン)を信じてください。
主人公はチャンミン(シムチャンミン)です。
『水彩の月』は、チャンミン(シムチャンミン)の幸福を祈って書いたものです。
「ユンホさん」の死を認めたチャンミン(シムチャンミン)は前に向かって歩き出したのです。
・
『水彩の月』と『Don’t Wanna Cry』は、対になっています。