(5)大好きだった-Don’t Wanna Cry-

 

~Don’t Wanna Cry~

 

~ユンホ~

 

「食事に...行きませんか?」

 

おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、

「喜んで」

と俺は返事をした。

 

「よかったです」

 

シムさんは心からホッとした表情をした。

彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。

 

「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」

 

照れて目元をほころばせた。

 

「ここなら、メニューが豊富ですし」

 

メニュー表を俺の前に広げる。

 

「好きなものを選んでください」

 

食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。

店員を呼んだ彼は、俺がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。

次々とテーブルに料理が届く。

俺はおそるおそる、だし巻き卵に箸を伸ばした。

出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。

 

「あ...」

 

じわっと広がる命の味。

ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。

俺の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。

かさかさになった俺の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。

気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。

 

「あなたは、美味しそうに食べるんですね」

「え?」

「見ていて気持ちがいいです」

 

あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った俺はおしぼりで目を拭う。

 

「美味しいですか?」

「ああ、とっても」

 

彼はそれはそれは優しい笑顔を見せた。

目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。

 

「よかったです。

このお店の料理は、全部美味しいんですよ」

 

財布を取り出す俺を制して彼は会計を済ませ、俺たちは店を出た。

夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が俺たちを包む。

 

「駅まで一緒に行きましょうか」

 

隣を歩く彼の精悍な横顔をちらりと見る。

俺の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。

とくんと心臓がはねた。

 

「シムさん...。

今夜はごちそうさまでした」

 

頭を下げる俺の肩の上に、彼の手がぽんとのった。

 

「お礼を言うのは僕の方です。

誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでした」

 

細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

ごく近年、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?

彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。

なんとなく、そんな感じがした。

 

 

突如、眠りの一日が訪れた。

眠くて眠くて仕方なかった。

5年分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。

夢も見ず、『泥のように』の言葉通り、こんこんと眠った。

そよぐ風で目覚めた。

は裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。

鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。

ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。

 

「よく眠ってましたね。

ユノが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」

 

ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。

 

「進歩していますよ。

上手くなりましたね」

 

床に直接座ったは、俺のスケッチブックを膝に広げていた。

 

「恥ずかしいから!」

 

手を伸ばすと、はスケッチブックを高く掲げてしまう。

 

「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」

「え?」

 

スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。

 

「えっと...もっと上手くなってから...」

「冗談ですよ」

 

はスケッチブックを俺に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと俺を見上げた。

 

「頬がふっくらしてきましたね。

よかったです」

 

優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。

...に気付かれただろうか。

は鋭い。

あどけない眼差しにさらされて、俺の心は怯えていた。

 

「安心しました」

 

寂しそうな笑顔だった。

懐かしい笑顔だった。

 

 

「今日は、遠回りしていきましょうか」

 

と手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。

日が暮れて完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。

夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。

砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。

この公園は、俺たちのお気に入りの場所だった。

池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。

無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買ったんだった。

いっぺんに投げ込んだ俺と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやっただった。

「食いしん坊なあの太った鯉は、貴方みたいですね」とが言って、俺は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかったんだ。

そんな思い出のある公園だった。

 

「ユノ...」

 

ずっと無言だったが、口を開いた。

が何を言おうとしているのか分かった。

 

「...好きな人が、いますね」

 

自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。

 

「僕は気付いていましたよ」

 

俺たちは立ち止まった。

柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。

 

「...ごめん」

 

そう言うのがやっとだった。

 

(つづく)