~ユンホ~
彼の名前が、亡くした恋人と同じ名前であることに混乱した。
チャンミン...。
名刺をもらったあの夜、確かに目にしていたはずなのに、印刷された『チャンミン』という名前が頭に入ってこなかった。
それほど俺は、哀しみの海底に沈んでいたのだ。
彼との仲が親密になっていっても、どうしても名前で呼べなかった。
口にする度に『チャンミン』の記憶が、いつになっても薄れていかなくなることが怖かった。
同じくらい背が高くて、優しくて。
最初は、比べてばかりいた。
そのうち、徐々に違うところが見えてきた。
全くの別人だった。
俺の心の中で、永遠に生き続けると固く信じていたのに、次第に『チャンミン』との思い出が遠ざかっていった。
想いの濃さが薄くなっていったのではない。
今でも『チャンミン』はちゃんと、俺の中に息づいている。
それとは別に現れたスペースに、今の彼の存在が満ちていったのだ。
過去のチャンミンはチャンミンとして存在し、全く別の場所に今のシム・チャンミンが存在している。
比べられない。
彼と初めて食事をしたとき、栄養不足だった俺の身体と心が生き返った。
幽霊のように生きていた俺の視界が、リアルで色鮮やかなものに変わったのだ。
やっと戻ってこられた、と思った。
彼が俺を生き返らせてくれたのだ。
そんな彼に感謝しながらも、隣を歩く彼のつくる笑顔が気になった。
目尻に浮かぶ笑いジワがとっても素敵だったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに、頬や口元がぎこちないものに見えたから。
ピンときた。
この人も、誰か大切な存在を失った過去があるんだ、って。
ぎこちない笑いであっても、本心からのものだと分かっていた。
彼の頬をほぐしてやりたい、と思った。
・
既婚歴のある人と交際を始めた知人が、苦笑交じりに漏らした台詞を思い出していた。
「『死別』はまだいいよ。
諦めがつくから。
辛いのは『離別』だ。
別れた相手が、どこかで暮らしているんだぞ?
顔を合わせるかもしれないし、ずっと比べられる」
とんでもない。
『死別』した者ほど絶対的で圧倒的な存在はない。
死んだ者の思い出は時が経つほど美化されるものだから。
彼の『恋人』が、どんな人だったのか見てみたい。
目にすれば、安心する。
実体がないのは、想像ばかりが膨らむ。
きっと素敵な人だったんだろう。
10年も一緒にいただなんて、深い愛情で結ばれていたのだろう。
顔もわからないんじゃ、俺はずっと『彼』の亡霊に嫉妬し続けるしかないじゃないか。
よりによって、俺の名前と、彼が亡くしてしまった『彼』の名前が同じだなんて。
「『ユンホさん』...か」
胸がひりひりするため息をついた。
・
彼の部屋に初めて通された日。
彼がお茶の用意をするため台所に立った隙に、俺は周囲を見回した。
『ユノ』の気配が残っているんじゃないか、って。
同棲はしていなかった、と言っていた。
でも、互いの部屋を行き来していたに決まっている。
彼が俺に手渡したマグカップひとつさえ、『ユノ』のものなんじゃないかと疑った。
俺の固い表情に気づいた彼は、苦笑交じりに、
「『ユノ』のものは全て彼の実家に送りました。
だから、ここには『ユノ』のものは何もありませんよ」
と言った。
「......」
「シムさんにあげたいものがあるんです」
微笑んでみせた彼は、立ち上がってクローゼットの扉を開けた。
ポールに引っ掛けた空のハンガーが目に入った。
きっと『ユノ』の洋服がかかっていたんだ。
「無いこと」が、彼の欠けた心を表しているみたいで、息が詰まる。
彼がクローゼットから取り出してきたものを見て、再び息が詰まった。
動揺した心を悟られないよう、俺は無理やり笑顔を作る。
ウンベラータの鉢植えだった。
彼は俺の反応を、じっと見守っている。
言葉が出てこなくて、ハート型の丸い葉を指先でなぞる。
これ以上黙っていたら、彼が不安に思う。
モンステラやポトス、ユッカなど、ポピュラーなものじゃなく、ウンベラータを選んだセンスに、俺は泣きそうだった。
自宅のベランダに、2つの鉢が並ぶことになるなんて。
よりによって、植物だなんて。
嬉しいのに...困ってしまった。
~シム・チャンミン~
額にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。
あなたの額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。
あなたは眠ったまま目を覚まさない。
触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。
「はあ...」
僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、あなたが遠い。
繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。
何かが僕らを隔てている。
あなたの額に僕の額を合わせ、あなたの呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。
あなたに同調しているうち、眠くなってくる。
僕の腕の中で『彼』を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。
今この時も、『彼』の夢をみているとしたら、辛い。
辛すぎる。
僕らは、意識して『今』か『これから』のことだけを話題にするよう気をつけていた。
相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。
僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。
いや、違う。
思いやりの心からなんかじゃない。
僕の場合、おびえていただけなんだ。
ねぇ。
『チャンミン』はどんな人だった?
忘れられないの?
臆病な僕は、あなたに尋ねられない。
死んでしまった『彼』に、僕は勝てない。
『チャンミン』...。
どうしてあなたの亡き恋人と、僕の名前は同じなんだろう?
ねえ。
僕と亡くした『チャンミン』と、比べていたりしますか?
今の僕は、あなただけを真っ直ぐに見つめているのに、あなたの心はやっぱり『チャンミン』に向いているのかな?
知りたいけれど、知りたくない。
僕の質問に答えようと、あなたは『チャンミン』を思い出そうとするだろう。
そうしたら、あなたは『チャンミン』との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。
出逢った頃のように、あなたの視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。
目の前にいる今の僕だけを見て欲しいから。
だから僕は、あなたの過去は知りたくない。
~ユンホ~
眠っているふりをしていた。
あなたの指が俺の額に触れたけど、熟睡しているふりをした。
俺の現実は、今ここにあるのに。
今の俺の心は、肌に触れているあなただけに向けられているのに。
あなたが亡くした恋人『ユノ』の存在。
過去のあなたが『ユノ』へ注いでいた愛情と、今の俺があなたへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、俺は負けてしまう。
それくらい、『ユノ』の存在は大きくて強力なのだ。
よりによって、俺と同じ名前だなんて。
俺は負けそうだ。
俺は寝返りをうつふりをして、あなたの胸に腕を巻き付けて、脇腹に鼻先を埋めた。
こんなに近くにいるのに、遠かった。
俺の寝顔を見下ろしながら、『ユンホさん』の寝顔を思い出しているかもしれない。
俺の心は、過去に引き戻されそうだった。
あなたは俺の肩を抱いて引き寄せたけど、俺は眠ったふりをしていた。
(つづく)