【8】大好きだった-忘れられないの-

~ユンホ~

彼の名前が、亡くした恋人と同じ名前であることに混乱した。

 

チャンミン...。

 

名刺をもらったあの夜、確かに目にしていたはずなのに、印刷された『チャンミン』という名前が頭に入ってこなかった。

 

それほど俺は、哀しみの海底に沈んでいたのだ。

 

彼との仲が親密になっていっても、どうしても名前で呼べなかった。

 

口にする度に『チャンミン』の記憶が、いつになっても薄れていかなくなることが怖かった。

 

同じくらい背が高くて、優しくて。

 

最初は、比べてばかりいた。

 

そのうち、徐々に違うところが見えてきた。

 

全くの別人だった。

 

俺の心の中で、永遠に生き続けると固く信じていたのに、次第に『チャンミン』との思い出が遠ざかっていった。

 

想いの濃さが薄くなっていったのではない。

 

今でも『チャンミン』はちゃんと、俺の中に息づいている。

 

それとは別に現れたスペースに、今の彼の存在が満ちていったのだ。

 

過去のチャンミンはチャンミンとして存在し、全く別の場所に今の彼が存在している。

 

比べられない。

 

彼と初めて食事をしたとき、栄養不足だった俺の身体と心が生き返った。

 

幽霊のように生きていた俺の視界が、リアルで色鮮やかなものに変わったのだ。

 

やっと戻ってこられた、と思った。

 

彼が俺を生き返らせてくれたのだ。

 

そんな彼に感謝しながらも、隣を歩く彼のつくる笑顔が気になった。

 

目尻に浮かぶ笑いジワがとっても素敵だったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに、頬や口元がぎこちないものに見えたから。

 

ピンときた。

 

この人も、誰か大切な存在を失った過去があるんだ、って。

 

ぎこちない笑いであっても、本心からのものだと分かっていた。

 

彼の頬をほぐしてやりたい、と思った。

 

 

 

 

既婚歴のある人と交際を始めた知人が、苦笑交じりに漏らした台詞を思い出していた。

 

「『死別』はまだいいよ。

諦めがつくから。

辛いのは『離別』だ。

別れた相手が、どこかで暮らしているんだぞ?

顔を合わせるかもしれないし、ずっと比べられる」

 

とんでもない。

 

『死別』した者ほど絶対的で圧倒的な存在はない。

 

死んだ者の思い出は時が経つほど美化されるものだから。

 

彼の『恋人』が、どんな人だったのか見てみたい。

 

目にすれば、安心する。

 

実体がないのは、想像ばかりが膨らむ。

 

きっと素敵な人だったんだろう。

 

10年も一緒にいただなんて、深い愛情で結ばれていたのだろう。

 

顔もわからないんじゃ、俺はずっと『彼』の亡霊に嫉妬し続けるしかないじゃないか。

 

よりによって、俺の名前と、彼が亡くしてしまった『彼』の名前が同じだなんて。

 

「『ユンホさん』...か」

 

胸がひりひりするため息をついた。

 

 

 

 

彼の部屋に初めて通された日。

 

彼がお茶の用意をするため台所に立った隙に、俺は周囲を見回した。

 

『ユンホさん』の気配が残っているんじゃないか、って。

 

同棲はしていなかった、と言っていた。

 

でも、互いの部屋を行き来していたに決まっている。

 

彼が俺に手渡したマグカップひとつさえ、『ユンホさん』のものなんじゃないかと疑った。

 

俺の固い表情に気づいた彼は、苦笑交じりに、

 

「『ユンホさん』のものは全て彼の実家に送りました。

だから、ここには『ユンホさん』のものは何もありませんよ」

 

と言った。

 

「......」

 

「あなたにあげたいものがあるんです」

 

微笑んでみせた彼は、立ち上がってクローゼットの扉を開けた。

 

ポールに引っ掛けた空のハンガーが目に入った。

 

きっと『ユンホさん』の洋服がかかっていたんだ。

 

「無いこと」が、彼の欠けた心を表しているみたいで、息が詰まる。

 

彼がクローゼットから取り出してきたものを見て、再び息が詰まった。

 

動揺した心を悟られないよう、俺は無理やり笑顔を作る。

 

ウンベラータの鉢植えだった。

 

彼は俺の反応を、じっと見守っている。

 

言葉が出てこなくて、ハート型の丸い葉を指先でなぞる。

 

これ以上黙っていたら、彼が不安に思う。

 

モンステラやポトス、ユッカなど、ポピュラーなものじゃなく、ウンベラータを選んだセンスに、俺は泣きそうだった。

 

自宅のベランダに、2つの鉢が並ぶことになるなんて。

 

よりによって、植物だなんて。

 

嬉しいのに...困ってしまった。

 

 

 


~チャンミン~

額にかかった一筋の髪をそっとよけてやる。

 

あなたの額に自分の額をくっつけて、肩を抱いた。

 

あなたは眠ったまま目を覚まさない。

 

触れたむき出しの肩が冷たくて、床に落ちた毛布をかけてやる。

 

「はあ...」

 

僕らはこうして身体を寄せ合っているのに、あなたが遠い。

 

繋がる回数を重ねても、僕の心は満たされない。

 

何かが僕らを隔てている。

 

あなたの額に僕の額を合わせ、あなたの呼吸に合わせて僕も、息を吸って吐いた。

 

あなたに同調しているうち、眠くなってくる。

 

僕の腕の中で『彼』を想っているのでは...との疑いが心をかすめてヒヤリとした。

 

今この時も、『彼』の夢をみているとしたら、辛い。

 

辛すぎる。

 

僕らは、意識して『今』か『これから』のことだけを話題にするよう気をつけていた。

 

相手が悲しい過去を思い出さないようにという、思いやりの心を持って。

 

僕らは2人でいることをスタートしたばかりで、2人で経験していくであろう出来事に、ワクワクしなくちゃいけないから。

 

いや、違う。

 

思いやりの心からなんかじゃない。

 

僕の場合、おびえていただけなんだ。

 

ねぇ。

 

『彼』はどんな人だった?

 

忘れられないの?

 

臆病な僕は、あなたに尋ねられない。

 

死んでしまった『彼』に、僕は勝てない。

 

『チャンミン』...。

 

どうしてあなたの亡き恋人と、僕の名前は同じなんだろう?

 

ねえ。

 

僕と亡くした『チャンミン』と、比べていたりしますか?

 

今の僕は、あなただけを真っ直ぐに見つめているのに、あなたの心はやっぱり『チャンミン』に向いているのかな?

 

知りたいけれど、知りたくない。

 

僕の質問に答えようと、あなたは『チャンミン』を思い出そうとするだろう。

 

そうしたら、あなたは『チャンミン』との思い出にもう一度胸を痛めるかもしれない。

 

出逢った頃のように、あなたの視線の先が僕を通り越したところにあったように、逆戻りしてしまうかもしれない。

 

目の前にいる今の僕だけを見て欲しいから。

 

だから僕は、あなたの過去は知りたくない。

 

 


 

 

~ユンホ~

 

 

眠っているふりをしていた。

 

あなたの指が俺の額に触れたけど、熟睡しているふりをした。

 

俺の現実は、今ここにあるのに。

 

今の俺の心は、肌に触れているあなただけに向けられているのに。

 

あなたが亡くした恋人『ユンホさん』の存在。

 

過去のあなたが『ユンホさん』へ注いでいた愛情と、今の俺があなたへ抱いている愛情を天秤にかけてみたらきっと、俺は負けてしまう。

 

それくらい、『ユンホさん』の存在は大きくて強力なのだ。

 

よりによって、俺と同じ名前だなんて。

 

俺は負けそうだ。

 

俺は寝返りをうつふりをして、あなたの胸に腕を巻き付けて、脇腹に鼻先を埋めた。

 

こんなに近くにいるのに、遠かった。

 

俺の寝顔を見下ろしながら、『ユンホさん』の寝顔を思い出しているかもしれない。

 

俺の心は、過去に引き戻されそうだった。

 

あなたは俺の肩を抱いて引き寄せたけど、俺は眠ったふりをしていた。

 

 

(つづく)

 

彼女とのHeaven's Day