(4)結婚前夜

 

~ユノ~

 

 

時刻は既に、18:00。

 

そろそろ彼女の元へ戻らないといけない。

 

彼女は、何も知らない。

 

当時、同棲していた子とは5年前に別れた。

 

チャンミンと秘密の逢瀬を重ねていた俺は、その子をずっと裏切っていた訳だ。

 

罪の意識からじゃない。

 

チャンミンに捨てられた喪失感で、何もかもがどうでもよくなってしまったのだ。

 

俺も酷い男だ。

 

チャンミン、ごめん。

 

俺は今になって、知ったよ。

 

あの日のチャンミンの気持ちが、今の俺なら分かる。

 

セフレみたいな関係を優先させて、常識的でまっとうなレールを外すことの怖さを。

 

時間をかけて築き上げたものを、たった1日でご破算した後のごたごたを想像すると...ぞっとする。

 

チャンミンだけを責められない。

 

俺も悪い。

 

5年前のあの日、あの夜。

 

俺はチャンミンをベッドに残して、去った。

 

チャンミンは泣いていた。

 

俺と彼女を天秤にかけられなかったチャンミン。

 

途方にくれた弱い男。

 

結婚前夜。

 

自身を取り巻く事柄によって、本当に欲しいものは何なのか見失っていたチャンミン。

 

「泣くほど別れが辛いのなら、俺を選べ。

面倒なことに巻き込まれることが怖いのなら、それを理由に俺を手放すのは止めろ。

俺を選べ。

俺もチャンミンを選ぶ」

 

口に出せなかった台詞。

 

何が欲しいのか分からず、彷徨っていたチャンミンを見放した。

 

欲しいものが何なのか、当時の俺ははっきりと分かっていたのに。

 

チャンミンを導かなかった俺。

 

自分だけ傷ついた顔した俺の方が、ずっと悪い。

 

下着も身につけず、薄汚い床にチャンミンはへたりこんだままだった。

 

今の俺は、何が欲しいのか分からない。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

僕に背を向けて、ユノは無言で着替えを済ませた。

 

広い背中。

 

僕はしみだらけのカーペット敷きの上に、ぺたりと座り込んだままだった。

 

ユノは濃いグリーンのトレンチコートを羽織ると、僕の前でひざまずいた。

 

「じゃあ、な」

 

ユノの大きな手が、僕の頭をくしゃりで撫ぜた。

 

ユノの優しくて温かい手。

 

僕は項垂れた頭が、ユノの手の下でぐらぐら揺れた。

 

「チャンミン。

さあ、服を着ろ」

 

腕を引っ張られた僕は、足に力が入らずよろめいて、ユノに支えられた。

 

僕をベッドに腰掛けさせると、ユノは床に散らばった僕の衣服を拾い集めた。

 

「駅まで、送るよ」

 

僕はぶんぶん首を横に振る。

 

「一人で...大丈夫か?」

 

「......」

 

ひざまづいたユノの顔が近い。

 

心配そうに僕を覗き込むユノの漆黒の瞳が、優しい。

 

「っ...っ...うっ...」

 

ぼろぼろとこぼれる涙に、ユノは枕元からティッシュペーパーをとって、拭ってくれる。

 

「チャンミン...」

 

ユノは呆れた、といった風のため息をつく。

 

「そんなんじゃ、心配で置いていけないよ。

...困ったな」

 

とぼやくようにユノは言って、僕の隣に腰掛けた。

 

「大丈夫だな?」

 

「......」

 

 

今を逃したら後はない、と思った。

 

失うものが何もなくなった僕の思考は、クリアでシンプルだ。

 

僕が心の奥底から欲しいものは、ただ一つ。

 

「帰らないと。

悪いな。

じゃあ、俺はもう行くよ」

 

ユノは立ち上がった。

 

「行くな!」

 

びりびりと部屋に響くほどの大声だった。

 

ユノは、ゆっくりと振り向いた。

 

「ユノ!

行くな!!」

 

僕は両腕を伸ばして、ユノの腰にしがみついた。

 

行かせてたまるかと、腕をからめた。

 

「...チャンミン...?」

 

「ユノが嫌だと言っても、

僕は離れないからな!」

 

5年前、部屋を出て行くユノを僕は追いかけなかった。

 

今の僕は、引きずられようと引きはがされようと、何がなんでも手離す気はない。

 

どこまでもみっともない男になってやる!

 

「行くな!」

 

ユノの手が僕の腕にかかる。

 

でも、ふりほどかれなくて、僕は嬉しかった。

 

「...チャンミン...?」

 

「ユノ!

結婚するのは止めろ!」

 

「でも...今さら...」

 

「僕を選んでよ!」

 

「...チャンミン...」

 

「ユノはきっと...っく...後悔するよ。

僕を選ばないと、ユノは絶対に後悔する!」

 

「チャンミン...」

 

「僕を選べ!」

 

30を過ぎた男が、涙でぐちゃぐちゃにさせて泣きじゃくっている。

 

「...ユノ...僕を置いていくな!」

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

俺の腰にむしゃぶりついてきたチャンミン。

 

見下ろした先のチャンミンの尻に、俺は思わず目を反らした。

 

「泣くな。

チャンミン...泣くな」

 

チャンミンの腕の力は凄まじい。

 

「...僕を選べ」

 

チャンミンは同じ言葉を繰り返した。

 

俺の腿の生地を、チャンミンの温かい涙が濡らしていく。

 

俺はどうすればいい?

 

チャンミンを振り切って出ていくべきか...それとも、肩を抱くべきか?

 

正解が分からない。

 

馬鹿か、俺は。

 

今さら、正しいも間違っているもないだろう。

 

俺もチャンミンも、彼女たちを裏切り続けた最低な男なんだから。

 

「分かった。

分かったから」

 

俺はそろりと腰を落として、嗚咽に合わせて震えるチャンミンの肩を抱いた。

 

「分かったから...泣くな」

 

俺は一体、「何が分かった」というんだ?

 

チャンミンの言葉は、全くの予想外だった。

 

俺の醒めた心、冷えて凝り固まった心に受けた衝撃は、あまりにも大きかった。

 

結婚前夜、幸せの絶頂にいるはずの俺。

 

正直に言う。

 

今の俺は、幸せなのか不幸なのかもわからない。

 

俺の目の前に天秤があるが、左右どちらの皿も空っぽだ。

 

「何が欲しいか分からなくなってしまった」ことにしておけば、右にも左にも傾くことはない。

 

それは一種の防衛反応で、5年前の出来事のように傷つくのは御免だったからだ。

 

ところが、チャンミンの一言に揺さぶられ、目の前の天秤がかき消えた。

 

まさか、そんな言葉がチャンミンから飛び出してくるなんて。

 

何が「わかった」と言うんだ?

 

チャンミンの心か?

 

俺にしがみついて「行くな」と懇願するチャンミンの気持ちなんて、痛いくらいに伝わっている。

 

はた目には哀れな姿だが、哀れだとは決して思わなかった。

 

思い出せ。

 

「脱げ」と命じた時、驚きで見開いたチャンミンの哀しみと怯えが混じった目。

 

苦痛をこらえて歪んだ唇。

 

チャンミンは俺を欲している。

 

ところが、チャンミンは俺に抱かれるために、結婚前夜というバッドタイミングに現れたのではないのだ。

 

そのことに気付いていたのに、俺はチャンミンに責めの言葉を吐き続けた。

 

苦痛しか生まないセックスをした。

 

5年間ずっと欲していたはずの、チャンミンの弁解と謝罪を注がれても、慰められなかった。

 

チャンミンは俺に伝えたいことがあって、恥を承知で結婚前夜に現れた。

 

俺は、責めと咎めの言葉で、チャンミンを怯ませた。

 

聞きたいけれど、一度耳にしてしまったら、確実に不快な思いをすると分かっていたから。

 

 

俺が「わかった」こと。

 

「ずっとずっと、苦しかった。

チャンミンがいなくて、とても苦しかった。

チャンミンが恋しかった」と言いたかったんじゃないのか?

 

理解ある大人の男を装って、チャンミンの前から去った俺。

 

俺も彼女も選べなかった5年前のチャンミン。

 

5年ぶりのチャンミンに、激しく心を揺さぶられた俺。

 

よりによって、結婚前夜。

 

 

俺が「決めたこと」。

 

俺はもっと、酷い男になるよ。

 

先ほどチャンミンに言い放った台詞を思い出せ。

 

「俺はセフレとか不倫とか、まっぴらごめんなんだ」

 

どういう意味か、分かるだろう?

 

(つづく)

 

 

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