(2)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

~チャンミン~

 

ユノに電話をかけようかかけまいか、さっきから迷っている。

 

寂しくて、ユノの声が聞きたくなったのだ。

 

西日でプールがオレンジ色に染まっている。

 

手持ち無沙汰で、夕飯はとっくに済ませてしまった。

 

「よいしょ」

 

僕は特別製車いすに、よじのぼった。

 

寂しくって、ユノの部屋に遊びに行こうと思ったのだ。

 

最近のユノは、僕が眠ると毛布を抜け出して部屋に行ってしまうのだ。

 

僕は薄目を開けて、プールサイドを離れるユノの背中を不安な気持ちで見つめていた。

 

そして、朝方になると僕の隣に戻り、まるでずっとそこで眠っていたかのように目を覚ますふりをするのだ。

 

僕も騙されたふりをしている。

 

ユノが何をしているのか、興味があったのだ。

 

段差ごとに設けられたスロープを上がる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

車輪は滑らかに回る。

 

エレベーターに乗って2階まで行き、ユノの部屋までたどり着く。

 

僕の隣で眠るようになって用無しとなったベッド、大きな本棚、ダンベル、何冊もの本が積まれたデスク。

 

僕が撮ったユノの写真が飾られていた。

 

ユノは毎週、クルーザーに乗せて僕を海に連れていってくれた。

 

その時の写真だ。

 

デスクには、本が何冊も、ページが開いたままのノートと、ボールペンがあった。

 

伏せて置かれた本の一冊を手に取った。

 

びっしりと細かい文字がページを埋めている。

 

付箋が何枚も貼ってあった。

 

付箋を頼りにページをめくる。

 

指が止まった。

 

「...うそ」

 

ユノの文字が並んだノートもめくった。

 

全身が氷になったかのように、一瞬で冷えた。

 

「嘘だ...」

 

僕は本もノートも放り出して、車いすの方向を変えた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

廊下を走る。

 

ユノ...。

 

ユノが...!

 

エレベーターに乗って1階へ、スロープでプールのある中庭まで下りた。

 

ユノが僕の為に置いていった、プールサイドの携帯電話に手を伸ばした。

 

「何かあったらすぐにすっ飛んで来るよ」と、ユノは言っていた。

 

それをつかんだその時、車いすがぐらりとかしいだ。

 

「ああっ!」

 

携帯電話がプールに落下してしまった。

 

プールに飛び込み、底に沈んだそれを救出する。

 

「...ああ...なんてこと」

 

ディスプレイが真っ暗になっていた。

 

ボタンを押しても、うんともすんともいわなくなっていた。

 

「...ユノ」

 

こうしていられない!

 

スロープを上り、エレベーターに乗り、ユノの部屋へ引き返す。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

ユノのクローゼットを漁り、ユノのコートを羽織った。

 

うろこだらけの下半身は毛布でくるんだ。

 

デスクからユノのノートを取って、背もたれの隙間に押し込んだ。

 

ユノのへそくりを隠してある戸棚から、紙幣をくすねてコートのポケットに入れた。

 

僕の不安は膨らむ。

 

戸棚の中にぎっしり詰まっていた紙幣が、ほとんど無くなっていた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

必死で車輪を動かした。

 

僕の目から涙がボロボロこぼれ落ちた。

 

ユノ!

 

ユノ!

 

ユノの馬鹿野郎!

 

門扉を抜けて、アスファルトの道路に出た。

 

自分ひとりで外に出るのは初めてだった。

 

どこをどう行けばいいのか、海へ行く道中何度も見たことがあるから、少しは分かっている。

 

空はすっかり暗くなっていた。

 

毛布の端から尾びれがのぞいていて、慌てて隠す。

 

僕の正体は誰にも知られてはいけないのだ。

 

大騒ぎになる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

歩道を猛スピードで車いすを走らせる姿は、そんなに珍しいのかな。

 

通り過ぎる者たちが好奇な視線を向ける。

 

バスだ、バスに乗ろう!

 

ポケットの中の紙幣を握りしめた。

 

停留所に停車したバスの行き先を確認して、「ついてる!」と思った。

 

だけど、車いすの僕はステップを上がれない。

 

それに...帰宅ラッシュで、バスは混雑していた。

 

親切な人が声をかけてくれたけど、いつ毛布がめくれて尾びれがむき出しになってしまうか知れない。

 

僕は首を振って、停留所を離れた。

 

タクシーは?

 

駄目だ、抱っこして乗せてもらっても、やっぱり尾びれを見られてしまうだろう。

 

こみ上げる涙をゴシゴシこすった。

 

泣いてる間があったら、先へ進むんだ。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

指の付け根にできた豆が潰れて痛かった。

 

僕は構わず、車輪を回転させる。

 

胸が痛くなってきた。

 

水から上がっていられる時間の限界が近づいてきている。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

公園の前にさしかかった時。

 

「あ...!」

 

ピクニックした場所。

 

僕とユノが寝そべって空を見上げた広場は、この公園にある。

 

そういえば、ここを突っ切っていけば、近道できるんだった!

 

街灯がぽつん、ぽつんと灯るだけの、誰もいない真っ暗な公園に車いすを差し向けた。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

車輪が地面のレンガにとられて、ガタガタと揺さぶられる。

 

ユノ...。

 

ユノに会わなくっちゃ。

 

今すぐ!

 

胸が痛い。

 

車輪を止め、僕は胸を押さえて大きく喘いだ。

 

いつの間にか露わになっていた尾びれが、街灯に透けて見えた。

 

急がないと!

 

泡になってしまう。

 

泡になって消えてしまう。

 

ユノに会いたい。

 

「ふぅ」

 

震える手で車輪をつかみ、前へ進む。

 

「よいしょ...よいしょ」

 

ここを抜ければ、ユノに会えるかもしれない。

 

間に合えば。

 

「...っく...!」

 

胸の痛みに身をよじらせた。

 

ひと息ついて、力を振り絞って車輪を前へ前へと回転させる。

 

「よいしょ、よいしょ」

 

広場を縁どる段差に車輪がぶつかり、つんのめり、僕の身体は大きく前に傾いた。

 

車椅子ごと地面にたたきつけられた。

 

僕は芝生の上に転がっていた。

 

「...っう...」

 

あの日は柔らかだった葉先が、固く鋭いものとなり、僕の頬を刺した。

 

「...ユノ...」

 

陸地に打ち上げられた一匹の人魚。

 

本来ならいるべきではない場所に、人魚がいた。

 

胸の痛みは耐えられないところまできていた。

 

潮の香りじゃなく、草と土の香りがした。

 

 

 


 

 

~ユノ~

 

こんな記述を読んだことがある。

 

泡となって消えてしまう人魚には、魂がないのだとか。

 

人間に愛された人魚には魂が宿るとも。

 

チャンミンに魂がないなんて、俺は信じない。

 

俺に愛されているチャンミンには、魂が宿っているはずなのだから。

 

 

(後編につづく)

 

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