~ユノ~
車を自宅のカーポートに停車させた時、何かがおかしいと感じた。
門扉が開いていた。
誰か来訪者がいたのか、それとも不法侵入を犯した者がいたのか。
「チャンミン!」
中庭いっぱいに建造した、50メートルプール。
プール底に仕込んだ照明を透かした薄青色は凪いでいる。
水中に沈んでじっと潜み、いきなり飛び出して俺を驚かすこともたびたびだった。
悪戯っ子なところがある人魚なのだ。
「チャンミン?」
すみずみまで目をこらしてみたが、チャンミンらしい影はなかった。
プールサイドの地面が乾いている。
そして携帯電話が転がっていた。
拾い上げてみると、電源が落ちており、ボタンを押しても起動しない。
家じゅうの照明が点いていた。
「チャンミン!」
地下の屋内プールも、キッチンもリビングも、2階に上がって寝室を覗いたが、チャンミンはいなかった。
「...あ」
もっと早く気付くべきだった。
車いすがなくなっていたじゃないか。
クローゼットの扉が開いている。
「!」
伏せて置いたはずの本が閉じられ、広げ置いたノートが消えていた。
「くそっ」
隠しておくべきだった。
これを見てチャンミンは家を飛び出していったんだ。
俺を引き止めようと、俺に会いに行ったんだ。
「あの馬鹿!」
なんて無鉄砲な。
特訓をしていたとは言え、外気に身をさらしていられるのは、わずか1時間もないんだぞ。
なんて危険なことを。
照明が点いていた...ということは、暗くなってからのことだ。
現在時刻と日の入り時間を逆算し...既に、2時間半は経っている!
どこに行こうとしたのだろう...。
手掛かりがないか、デスクの上を注意深く見る。
最近の俺が熱心に読み込んでいた、本の裏表紙に貼られた図書館のシール。
ノートに書き記したアドレス。
ポケットの中の物を握りしめた。
チャンミンが知っているところ、、第一に訪れるであろう場所と言えば...。
見当違いなところだ。
俺は階段を駆け下り、カーポートまで走る。
左右の確認なしに表通りに車を出した。
~チャンミン~
海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。
薔薇色の雲になんてなりたくなかった。
この固くて冷たい地面を蹴って、走ってゆきたい。
大きな石も柵も楽々と飛び越えて、デコボコ道もぬかるんだ道もスニーカー履きの足で駆けてゆくのだ。
どうして僕は人魚なんだろう?
水からあがった人魚はあまりにも儚く、弱い。
僕に足を下さい。
この尾びれを2本の足に変えてくれるのなら、僕は代わりに何でもあげます。
そんな魔法があればよかった。
あったらよかったのに。
倒れた車いすを起こし、そこによじのぼる力がなかった。
胸が押しつぶされそうだった。
「はあはあはあ...」
僕には起き上がる力はもうない。
でも、ユノに会わないといけないのだ。
ユノを引き止めないと。
僕はうつ伏せになって、ほふくで進んだ。
「よいしょ...よいしょ...」
尾びれが重い。
水の中では自由に動き回れるのに、地上はなんて不自由なんだろう。
ずりずりと地面に擦れてうろこが何枚もはがれた。
「ユノっ!」
必死で芝生をつかむ指先が透けてきた。
「ユノー!」
聞こえるはずがないのに、ユノの名前を叫んだ。
「ユノー!」
僕はユノがいないと、ここでは生きていけない。
「ユノ!
ユノー!」
地面に無様に転がって身動きできなくなった今になって、いかにユノが僕を守り、慈しんできたのかを身をもって知った。
ユノは狡くなんかない。
僕のために一生懸命だった。
僕を全身で愛してくれた。
僕はユノを愛している。
僕は地上の生活が、ユノの側に暮らすことに満足していたんだよ。
意地悪な気持ちを持ってごめんなさい。
「...ユノ」
泡になんてなりたくない。
泡となって薔薇色の雲になんてなりたくない。
「ユノ―!!」
頬を伝う涙が唇を濡らした。
海の水のように塩辛い涙だった。
~ユノ~
公園の芝地に打ち上げられたひとりの人魚。
チャンミンを海から連れてきたことに、深く深く後悔した。
愛情さえあれば、チャンミンを地上で生かすことができると信じていた。
「チャンミン!」
横倒しになった車いすと、見覚えのある俺のコート。
なんて無謀なことをしてくれたんだ!
抱き起し、頬を叩いた。
「チャンミン?」
コートの合わせから裸の胸がのぞいている。
コート1枚羽織っただけで、飛び出したのか...。
チャンミンのまぶたは苦し気にゆがんだ形で固く閉じ、扇型に広がったまつ毛。
「チャンミン!」
唇は真一文字に閉じて、口角は下がっている。
毛布がめくれあがり、しなやかな尾びれの先から地面の芝が透けて見えた。
街灯の光を受けて、キラキラとまばゆい光を放つはずの瑠璃色のうろこが、くすんだ鉛色になっていた。
「チャンミン!」
この広場を斜めに突っ切った先に、図書館がある。
海への往復の際に、図書館の前を通るのだ。
俺が図書館にいると信じて、そこに向かったんだ。
「馬鹿野郎...」
チャンミンは俺を止めようとしたんだ。
力なくくたりと落ちた腕は、指先から肘まで透けている。
チャンミンは泡となって消えていこうとしている。
・
人魚には魂がないという記述を読んだことがある。
チャンミンは人魚だ。
チャンミンには魂がない。
...ということは、魂を失うことはないはずだ。
一瞬、希望の感情が湧いたが、すぐさま心が冷えた。
人間に愛された人魚には魂が宿るのだ。
俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っている。
魂のない人魚の命が尽きる時、泡となって消えて行く。
チャンミンには実体がまだ残っている。
ということは、まだ間に合うかもしれない。
・
毛布にくるんだチャンミンを抱き上げ、図書館へとは逆方向に向かった。
チャンミンは軽かった。
公園のすぐそばに、海へと注ぐ河川がある。
流れが早く、黒々とした水面がざぶざぶと、堤防壁に当たって砕けている。
「チャンミン、待ってろ」
コンクリートの堤防にチャンミンを寝かせた。
俺はジャケットと靴を脱いだ。
俺はポケットから小瓶を取り出し、中身を飲み干した。
チャンミンをもう一度、抱き上げた。
眼下3メートル下は、夜の川。
俺はチャンミンを抱きしめて、共に飛び降りた。
俺とチャンミンは水の中。
周囲から音が消えた。
チャンミンを抱いた腕から力が失われる。
肺の中の酸素が尽きた。
漆黒の水中。
目を閉じているのか開けているのか、俺にはもう、分からない。
見えるはずのないチャンミンの白い顔が、ぼうっと浮かんだ。
尾びれが虹色に光を放っていた。
チャンミンの眼が三日月型に細められた。
ああ、ここは静寂の極楽だ。
~チャンミン~
僕は薔薇色の雲と雲の中を、自由自在に飛んでいた。
遥か1,000メートル下のユノを探していた。
僕の身体は間もなく、雲に溶け込んでしまうだろう。
僕は鼻をくんくんとさせた。
甘くて透明な香りがすると思った瞬間、
「ああっ!」
暴力的とも言える力で、下へと引き落された。
ぐんぐん僕の身体は落下していく。
薔薇色の雲がどんどん遠くなっていった。
背中の衝撃は、水面が叩いたものだと瞬時に分かった。
僕は真っ暗闇の水の中へ中へと沈んでいった。
僕は人魚。
尾びれを大きく振って、浮上する。
その途中。
ユノの白い顔がぼんやりからクリアに、目に飛び込んできた。
「ユノ!」
ユノが水中でたゆたっていた。
目は閉じられている。
ユノの口からは、泡ひとつこぼれてこない。
ユノの馬鹿!
ユノの身体を水上へと抱いて上がる。
ユノは人間。
水の中では生きてゆけない。
あの本とノートを見つけた時、ユノが何をしようとしていたかを知った。
ユノは魂を手放すつもりだったのだ。
人魚には魂がない。
ユノは人魚になろうとしていたのだ。
僕と共に、広大な海で暮らすために。
ノートに書かれていたのは人魚になるためのレシピだ。
僕は魂のある人間のユノが好きだったのに。
ユノと共に、地上で暮らしてゆきたかったのに。
ユノの馬鹿野郎!
僕はそんなこと、望んでなかったのに。
ユノの頭を抱きしめて、僕は泣いた。
おいおい泣いた。
かつて薔薇色だった、ユノの唇にキスをした。
「ユノ...」
ユノのまぶたが開いた。
尾びれの光が水中から放たれ、ユノの顔を照らしたのだ。
僕の腕の中で、ユノがほほ笑んだ。
「...あ」
尾びれが放つ発光体が2つになっていた。
「そうだよ。
...そうなんだ」
ユノは人魚になっていた。
・
「ユノの馬鹿」
「機嫌を直して」
「ユノの馬鹿!」
僕はぷんぷんに怒っていた。
同時に、嬉しくてたまらなかった。
「いいことを教えてあげる」とユノは言った。
泳ぎが下手なユノの手を引いて、海を目指していた。
「何?」
「チャンミンが怒っている理由は分かっている。
俺を止めようとしてくれてたんだね?」
「そうだよ。
死に物狂いだったんだよ?」
「わかってる。
チャンミンが喜ぶことを教えてあげる」
僕らは泳ぎを止め、互いの腕をつかんで向かい合った。
「俺は人間で魂があった。
人魚には魂がない。
でもね。
人間に愛された人魚には、魂が宿るんだって」
「知ってるよ。
ユノの本に書いてあった」
「俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っているんだよ」
「...そっか!」
「これを聞いたら、もっとチャンミンの機嫌が直るよ。
絶対に」
ユノの言葉に、既に歓喜していた僕は、声を出せずに頷くのがやっと。
「魂が宿ったチャンミンから愛されて、人魚となった俺にも魂があるってこと。
俺たちは魂を宿した人魚となったんだ」
「...ユノの馬鹿」
「馬鹿なことをしでかすほど、チャンミンを愛してるってことだ」
「...僕も、同じ気持ち。
愛してる」
ユノの胸に抱きついた。
「全財産をかけた俺の壮大な計画だったんだ。
驚かそうと思って」
「僕も命がけだった」
「そうだね。
人魚のくせに、外を出歩くなんて」
「僕には足がないもん」
「そうだね。
チャンミンの本来の棲み家は、水の中だ」
「これからのユノの棲み家も、水の中だよ。
一緒に暮らせるね」
「ご機嫌が直ったみたいで、俺は安心したよ」
「ねえ、ユノ。
僕からもユノが喜ぶことを教えてあげる」
「へぇ。
何なに?」
「人魚はとても儚く弱いけど、人間には出来ないこともできるんだよ」
ユノの耳元で囁いた。
「ユノの赤ちゃんを産みたい」
ユノの目が真ん丸になった。
(おしまい)
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