(3)泡となって薔薇色の雲になる

 

 

~ユノ~

 

車を自宅のカーポートに停車させた時、何かがおかしいと感じた。

 

門扉が開いていた。

 

誰か来訪者がいたのか、それとも不法侵入を犯した者がいたのか。

 

「チャンミン!」

 

中庭いっぱいに建造した、50メートルプール。

 

プール底に仕込んだ照明を透かした薄青色は凪いでいる。

 

水中に沈んでじっと潜み、いきなり飛び出して俺を驚かすこともたびたびだった。

 

悪戯っ子なところがある人魚なのだ。

 

「チャンミン?」

 

すみずみまで目をこらしてみたが、チャンミンらしい影はなかった。

 

プールサイドの地面が乾いている。

 

そして携帯電話が転がっていた。

 

拾い上げてみると、電源が落ちており、ボタンを押しても起動しない。

 

家じゅうの照明が点いていた。

 

「チャンミン!」

 

地下の屋内プールも、キッチンもリビングも、2階に上がって寝室を覗いたが、チャンミンはいなかった。

 

「...あ」

 

もっと早く気付くべきだった。

 

車いすがなくなっていたじゃないか。

 

クローゼットの扉が開いている。

 

「!」

 

伏せて置いたはずの本が閉じられ、広げ置いたノートが消えていた。

 

「くそっ」

 

隠しておくべきだった。

 

これを見てチャンミンは家を飛び出していったんだ。

 

俺を引き止めようと、俺に会いに行ったんだ。

 

「あの馬鹿!」

 

なんて無鉄砲な。

 

特訓をしていたとは言え、外気に身をさらしていられるのは、わずか1時間もないんだぞ。

 

なんて危険なことを。

 

照明が点いていた...ということは、暗くなってからのことだ。

 

現在時刻と日の入り時間を逆算し...既に、2時間半は経っている!

 

どこに行こうとしたのだろう...。

 

手掛かりがないか、デスクの上を注意深く見る。

 

最近の俺が熱心に読み込んでいた、本の裏表紙に貼られた図書館のシール。

 

ノートに書き記したアドレス。

 

ポケットの中の物を握りしめた。

 

チャンミンが知っているところ、、第一に訪れるであろう場所と言えば...。

 

見当違いなところだ。

 

俺は階段を駆け下り、カーポートまで走る。

 

左右の確認なしに表通りに車を出した。

 

 

 


 

 

 

~チャンミン~

 

 

海の泡が風の精霊となって天高く浮かび上がり、薔薇色の雲になるという。

 

薔薇色の雲になんてなりたくなかった。

 

この固くて冷たい地面を蹴って、走ってゆきたい。

 

大きな石も柵も楽々と飛び越えて、デコボコ道もぬかるんだ道もスニーカー履きの足で駆けてゆくのだ。

 

どうして僕は人魚なんだろう?

 

水からあがった人魚はあまりにも儚く、弱い。

 

僕に足を下さい。

 

この尾びれを2本の足に変えてくれるのなら、僕は代わりに何でもあげます。

 

そんな魔法があればよかった。

 

あったらよかったのに。

 

倒れた車いすを起こし、そこによじのぼる力がなかった。

 

胸が押しつぶされそうだった。

 

「はあはあはあ...」

 

僕には起き上がる力はもうない。

 

でも、ユノに会わないといけないのだ。

 

ユノを引き止めないと。

 

僕はうつ伏せになって、ほふくで進んだ。

 

「よいしょ...よいしょ...」

 

尾びれが重い。

 

水の中では自由に動き回れるのに、地上はなんて不自由なんだろう。

 

ずりずりと地面に擦れてうろこが何枚もはがれた。

 

「ユノっ!」

 

必死で芝生をつかむ指先が透けてきた。

 

「ユノー!」

 

聞こえるはずがないのに、ユノの名前を叫んだ。

 

「ユノー!」

 

僕はユノがいないと、ここでは生きていけない。

 

「ユノ!

ユノー!」

 

地面に無様に転がって身動きできなくなった今になって、いかにユノが僕を守り、慈しんできたのかを身をもって知った。

 

ユノは狡くなんかない。

 

僕のために一生懸命だった。

 

僕を全身で愛してくれた。

 

僕はユノを愛している。

 

僕は地上の生活が、ユノの側に暮らすことに満足していたんだよ。

 

意地悪な気持ちを持ってごめんなさい。

 

「...ユノ」

 

泡になんてなりたくない。

 

泡となって薔薇色の雲になんてなりたくない。

 

「ユノ―!!」

 

頬を伝う涙が唇を濡らした。

 

海の水のように塩辛い涙だった。

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

公園の芝地に打ち上げられたひとりの人魚。

 

チャンミンを海から連れてきたことに、深く深く後悔した。

 

愛情さえあれば、チャンミンを地上で生かすことができると信じていた。

 

「チャンミン!」

 

横倒しになった車いすと、見覚えのある俺のコート。

 

なんて無謀なことをしてくれたんだ!

 

抱き起し、頬を叩いた。

 

「チャンミン?」

 

コートの合わせから裸の胸がのぞいている。

 

コート1枚羽織っただけで、飛び出したのか...。

 

チャンミンのまぶたは苦し気にゆがんだ形で固く閉じ、扇型に広がったまつ毛。

 

「チャンミン!」

 

唇は真一文字に閉じて、口角は下がっている。

 

毛布がめくれあがり、しなやかな尾びれの先から地面の芝が透けて見えた。

 

街灯の光を受けて、キラキラとまばゆい光を放つはずの瑠璃色のうろこが、くすんだ鉛色になっていた。

 

「チャンミン!」

 

この広場を斜めに突っ切った先に、図書館がある。

 

海への往復の際に、図書館の前を通るのだ。

 

俺が図書館にいると信じて、そこに向かったんだ。

 

「馬鹿野郎...」

 

チャンミンは俺を止めようとしたんだ。

 

力なくくたりと落ちた腕は、指先から肘まで透けている。

 

チャンミンは泡となって消えていこうとしている。

 

 

 

 

人魚には魂がないという記述を読んだことがある。

 

チャンミンは人魚だ。

 

チャンミンには魂がない。

 

...ということは、魂を失うことはないはずだ。

 

一瞬、希望の感情が湧いたが、すぐさま心が冷えた。

 

人間に愛された人魚には魂が宿るのだ。

 

俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っている。

 

魂のない人魚の命が尽きる時、泡となって消えて行く。

 

チャンミンには実体がまだ残っている。

 

ということは、まだ間に合うかもしれない。

 

 

 

 

毛布にくるんだチャンミンを抱き上げ、図書館へとは逆方向に向かった。

 

チャンミンは軽かった。

 

公園のすぐそばに、海へと注ぐ河川がある。

 

流れが早く、黒々とした水面がざぶざぶと、堤防壁に当たって砕けている。

 

「チャンミン、待ってろ」

 

コンクリートの堤防にチャンミンを寝かせた。

 

俺はジャケットと靴を脱いだ。

 

俺はポケットから小瓶を取り出し、中身を飲み干した。

 

チャンミンをもう一度、抱き上げた。

 

眼下3メートル下は、夜の川。

 

 

 

俺はチャンミンを抱きしめて、共に飛び降りた。

 

 

 

俺とチャンミンは水の中。

 

周囲から音が消えた。

 

チャンミンを抱いた腕から力が失われる。

 

 

肺の中の酸素が尽きた。

 

 

漆黒の水中。

 

目を閉じているのか開けているのか、俺にはもう、分からない。

 

見えるはずのないチャンミンの白い顔が、ぼうっと浮かんだ。

 

尾びれが虹色に光を放っていた。

 

チャンミンの眼が三日月型に細められた。

 

 

 

ああ、ここは静寂の極楽だ。

 

 

 


 

 

~チャンミン~

 

僕は薔薇色の雲と雲の中を、自由自在に飛んでいた。

 

遥か1,000メートル下のユノを探していた。

 

僕の身体は間もなく、雲に溶け込んでしまうだろう。

 

僕は鼻をくんくんとさせた。

 

甘くて透明な香りがすると思った瞬間、

 

「ああっ!」

 

暴力的とも言える力で、下へと引き落された。

 

ぐんぐん僕の身体は落下していく。

 

薔薇色の雲がどんどん遠くなっていった。

 

背中の衝撃は、水面が叩いたものだと瞬時に分かった。

 

僕は真っ暗闇の水の中へ中へと沈んでいった。

 

僕は人魚。

 

尾びれを大きく振って、浮上する。

 

その途中。

 

ユノの白い顔がぼんやりからクリアに、目に飛び込んできた。

 

「ユノ!」

 

ユノが水中でたゆたっていた。

 

目は閉じられている。

 

ユノの口からは、泡ひとつこぼれてこない。

 

ユノの馬鹿!

 

ユノの身体を水上へと抱いて上がる。

 

ユノは人間。

 

水の中では生きてゆけない。

 

あの本とノートを見つけた時、ユノが何をしようとしていたかを知った。

 

ユノは魂を手放すつもりだったのだ。

 

人魚には魂がない。

 

ユノは人魚になろうとしていたのだ。

 

僕と共に、広大な海で暮らすために。

 

ノートに書かれていたのは人魚になるためのレシピだ。

 

僕は魂のある人間のユノが好きだったのに。

 

ユノと共に、地上で暮らしてゆきたかったのに。

 

ユノの馬鹿野郎!

 

僕はそんなこと、望んでなかったのに。

 

ユノの頭を抱きしめて、僕は泣いた。

 

おいおい泣いた。

 

かつて薔薇色だった、ユノの唇にキスをした。

 

「ユノ...」

 

ユノのまぶたが開いた。

 

尾びれの光が水中から放たれ、ユノの顔を照らしたのだ。

 

僕の腕の中で、ユノがほほ笑んだ。

 

「...あ」

 

尾びれが放つ発光体が2つになっていた。

 

「そうだよ。

...そうなんだ」

 

 

 

 

ユノは人魚になっていた。

 

 

 

 

 

「ユノの馬鹿」

 

「機嫌を直して」

 

「ユノの馬鹿!」

 

僕はぷんぷんに怒っていた。

 

同時に、嬉しくてたまらなかった。

 

「いいことを教えてあげる」とユノは言った。

 

泳ぎが下手なユノの手を引いて、海を目指していた。

 

「何?」

 

「チャンミンが怒っている理由は分かっている。

俺を止めようとしてくれてたんだね?」

 

「そうだよ。

死に物狂いだったんだよ?」

 

「わかってる。

チャンミンが喜ぶことを教えてあげる」

 

僕らは泳ぎを止め、互いの腕をつかんで向かい合った。

 

「俺は人間で魂があった。

人魚には魂がない。

でもね。

人間に愛された人魚には、魂が宿るんだって」

 

「知ってるよ。

ユノの本に書いてあった」

 

「俺に愛されたチャンミンには、魂が宿っているんだよ」

 

「...そっか!」

 

「これを聞いたら、もっとチャンミンの機嫌が直るよ。

絶対に」

 

ユノの言葉に、既に歓喜していた僕は、声を出せずに頷くのがやっと。

 

「魂が宿ったチャンミンから愛されて、人魚となった俺にも魂があるってこと。

俺たちは魂を宿した人魚となったんだ」

 

「...ユノの馬鹿」

 

「馬鹿なことをしでかすほど、チャンミンを愛してるってことだ」

 

「...僕も、同じ気持ち。

愛してる」

 

ユノの胸に抱きついた。

 

「全財産をかけた俺の壮大な計画だったんだ。

驚かそうと思って」

 

「僕も命がけだった」

 

「そうだね。

人魚のくせに、外を出歩くなんて」

 

「僕には足がないもん」

 

「そうだね。

チャンミンの本来の棲み家は、水の中だ」

 

「これからのユノの棲み家も、水の中だよ。

一緒に暮らせるね」

 

「ご機嫌が直ったみたいで、俺は安心したよ」

 

「ねえ、ユノ。

僕からもユノが喜ぶことを教えてあげる」

 

「へぇ。

何なに?」

 

「人魚はとても儚く弱いけど、人間には出来ないこともできるんだよ」

 

ユノの耳元で囁いた。

 

「ユノの赤ちゃんを産みたい」

 

ユノの目が真ん丸になった。

 

 

(おしまい)

 

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