長くほっそりとした首をひきたてる、ハイネックの洋服がよく似合った。
彼は長らく、首に枷をした生活を送っていたせいで、茶色く色素沈着した痕がぐるりとできていた。
それは、固い牛革製の太い首輪だったから。
可哀想に、と憐れみの気持ちが湧かない俺は、冷たい人間なんだろうな。
自ら望んで飛び込んだ『商品』としての身分だとしたら、同情できないのは当然のこと。
やむにやまれぬ事情で、意に沿わない身分に堕ちてしまった結果だとしても、やっぱり俺は同情しない。
なぜなら、彼と同じ過去を持つ俺だったから。
もう何年も前の話だ。
男の肢体を売り物にする店で、俺自身が『商品』となって陳列されていた過去がある。
枷から解放された今、彼は「首がすうすうして落ち着かない」と始終こぼしていた。
「じゃあ、新しい首輪を買ってやろうか?」
冗談のつもりでそう言ったら、彼はしばし考えた末、
「それもいいかもしれませんね。
次はシープスキンの柔らかいものにしてください。
色は青がいいです。
宝石が埋め込まれていたら...素敵でしょうね」
なんて真顔で答えて、うっとりとした表情を見せる。
こういう時に初めて、彼に憐れみの情を抱いてしまうのだ。
「馬鹿言うんじゃないよ。
首輪なんて...するもんじゃないよ」
俺にも、首輪をされリードに繋がれて犬のように引っ張り回されていた時があったのだ。
俺は自身の首をさすりながら、鏡の前で一回転して、新しい洋服をまとった全身を映す彼の後ろ姿を眺めていた。
俺の暮らしに、可愛いワンコが加わった。
子犬みたいな愛くるしい目をした、成人男性。
彼を買ったのは、俺だ。
連れて帰るつもりなんて...なかったのに...。
今こうして彼は、俺のそばにいる。
・
「お兄さんはお金持ちなんですね」
彼は俺の家に通されるなり、調度品のひとつひとつに感嘆の声をあげながら、ひと部屋ひと部屋丁寧に見て回った。
「こんなゴージャスな生活を送れるなんて...どうやったらできるのですか?」
いきさつを説明し出したら、当時のことを思い出して辛くなる...なんて、繊細な精神の持ち主なんかじゃない。
説明が面倒だった俺は、「仕事を頑張った成果だよ」とだけ答えておいた。
彼はより詳しい説明が語られるのを待っていたようだった。
目の前のこの男は、微に入り細に入り質問攻めにしそうな人物だ。
好奇心旺盛な、いたずら盛りの子犬みたいな眼をしている。
彼の上目遣いに負けて、「いろいろとね」と付け加えたが、「で?」とさらなる言葉を待っている様子。
「おいおい話してやるよ。
風呂に入りたいだろう?」
ことの後、彼はシャワーを浴びる間もなかったはずだ。
俺が店を立ち去ってすぐに、俺を追いかけてきたんだから。
俺もあの店出身だ。
店主は当時の者と変わっていたし、改築したらしく内装も設備も新しくなっていた。
ただ、ガラス張りの陳列棚はいけない。
ペットショップそのものじゃないか。
そんな場所で俺は、1晩レンタルしたい気に入りを探したのだ。
レンタルする客の気分を味わいたかったんだろうな。
店一番の商品とはどれほどのものなのか、といった興味本位だ。
目の前に商品があり、それを買う客がいる。
俺はそれをしたまでのこと。
俺の自尊心を損なわせ、嫌悪していたはずの場所に、なぜ舞い戻るような真似をしたのか。
さあ...分からない。
「僕を連れて帰って下さいよ?」
お兄さんの腕にしがみついて頼んだ。
「それは出来ない」と断られるかと覚悟してたから、お兄さんは「ついて来い」といった風に顎をしゃくったから、僕の中で喜びが弾けた。
お兄さんは歩くのが早くて、体力が不足している僕はついていくのがやっとだった。
僕はずっと、狭いところに閉じ込められていたからね。
しょうがないな、って僕の腰を抱いてくれて、僕のスピードに合わせて歩いてくれた。
お兄さんの身長は僕と同じくらい、なよなよっとした僕とは大違いだ。
お兄さんの身体はうんと鍛えられているはず。
お兄さんに抱かれておきながら、「はず」と言ったのは、お兄さんは服を着たままだったから。
でも、お兄さんの下で揺れていた時、しがみついたお兄さんの腰の引き締まった感じから、きっと逞しい身体をしているんじゃないかな、と予想している。
きびきびとした足運び。
まっすぐな背筋。
お兄さんは歩くのが好きなんだって。
特に、夜の街をぶらぶらとあてもなく、散歩をするのが好きなんだって。
靴擦れしてしまった僕を心配して、お兄さんはタクシーを呼んでくれた。
隣に座るお兄さんの横顔を、そうっと横目で見た。
お兄さんはとっても綺麗な顔をしている。
男の人相手に、綺麗だって思うなんて変だろうけど、ほんとーに綺麗なんだ。
僕はこれまで、沢山の男の人を見てきた。
醜い人もハンサムな人も、変態なのもまともなのも、若かったり年寄だったり...。
お兄さんに買い取ってもらえて、僕はラッキーだ。
ほんとーに、よかった。
そろそろっと片手を滑らせて、お兄さんの手を握った。
びっくりしたお兄さんがこちらを見ているのは分かっていたけど、僕は知らんぷりしていた。
僕の手が、お兄さんの大きな手で包まれた。
温かくて力強くて、僕の胸がぎゅうっとなった。
ちょっとだけ涙が出たけど、恥ずかしかったから顔を背けて、窓の外を見入っているふりをしていた。
僕を買ってくれたお兄さんのために、何でもしてあげようと思った。
・
お兄さんちのお風呂は広くて清潔で、たっぷりとお湯が出るし、バスタオルも分厚くふかふかで...素敵だ。
ぬるぬるしていたお尻をきれいにした。
いい匂いのするシャンプーが嬉しくて、髪を2度も洗った。
僕のために、Tシャツとスウェットパンツを用意してくれた(これはお兄さんのものだよね)
下着なんてパッケージに入ったままの新品だった。
浴室を出た僕は、お兄さんがいるリビングへ走った。
「おに...」
声をかけるのがためらわれたのは、お兄さんが怖い目をしていたからだ。
ソファの肘掛けに頬杖をしたお兄さんは、斜め上の空を睨んでいた。
僕はその場に立ち尽くして、お兄さんの様子を見守った。
「ああ、ごめんごめん」
僕の存在に気付いたお兄さんは、無表情を崩して微笑を浮かべてくれた。
無知な僕からは、気のきいた言葉が出てこない。
だから、お兄さんの足元にひざまずいて、お兄さんの太ももを抱きしめた。
それから、お兄さんのズボンのファスナーに手を伸ばした。
「よせっ」
僕の手は、お兄さんの手で振り払われた。
ショックを受けた僕の表情に、お兄さんは「悪かった」と言って、僕の頬を撫ぜた。
優しい指。
お兄さんにセレクトされた時、僕の首輪に触れたお兄さんの指に、僕は鳥肌がたったんだ。
お兄さんを慰める方法が、あれしか思いつかなかったのだ。
僕はお兄さんの太ももに頬ずりをした。
「僕をお試ししてみて...どうでした?」
どんな言葉を発していいのか分からなくて、代わりに尋ねてみた。
「...よかったよ」
お兄さんは僕の頭を撫ぜてくれる。
「今から...抱いてくれますか?」
撫ぜる手が、ぴたりと止まった。
「俺はもう、客じゃないんだ。
そんなことしなくていいんだよ?」
「そういうわけにはいきません」
僕は服を脱ぎ、お兄さんの太ももの上に跨った。
裸で過ごすのが当たり前だったから、洋服を着ているのは居心地が悪かったんだ。
口づける間際に、お兄さんの指に阻まれた。
「その前に...」
僕を見上げるお兄さんの眼が、黒々としていて陰気だった。
お店では気づかなかった。
「お前の名前を尋ねていなかった」
「...マックスです」
「それは店での呼び名だろう?
俺が尋ねているのは、本名だ」
名前なんてあってないような世界にいたから、お兄さんの質問に答えるのに時間がかかってしまった。
客にとって、僕の名前なんてどうでもよくて、興味があるのは僕の身体なんだから。
えーっと、僕の本当の名前って、何だったっけ?
「...チャ...チャンミン」
久方ぶりの発音で、自分の名前なのにそうじゃないみたい。
「へぇ。
いい名前だね」
お兄さんに褒められて得意になった僕は、お兄さんの唇を食んで、甘噛みした。
お兄さんも僕と同じ、『犬』出身だ、と言っていた。
辛かっただろうな...。
僕の場合は、現状を深く追求しないように心に蓋をしていたから。
お兄さんが僕にお金を払ったのは、決して同情からじゃない。
そんなことくらい、分かってる。
(つづく)
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