~ユノ~
ページの端が折られたカタログをめくって、接続したWebサイトの注文ページに入力していたところだった。
ごく控え目に音楽を流したリビングに、カチカチとマウスをクリックする音だけが響く。
チャンミンの希望通りに、どこに使うのか見当がつかない溶岩に首を傾げ、種苗ポット、革製の園芸手袋などを注文していく。
業者の手によって人口的にまとめられたルーフバルコニーの庭園は、チャンミンの手によって野趣あふれる空間に様変わりしていた。
名の知らない草花が花壇を埋め尽くしていた。
元からあったリンゴの木の側には、姫リンゴの苗木が植わっている。
さながら、俺たちの秘密の庭園をこしらえようとしているかのように。
チャンミンは今、庭いじりに夢中なのだ。
仕事部屋から、花壇の前にしゃがみこんで作業をしている、麦わら帽子のチャンミンに、知らず知らず笑みがこぼれてしまうのだ。
何度も読みこんだらしいカタログは、反りかえっている。
欲しいものがあれば何でも注文してやるぞ、と言っていたが、チャンミンが欲しがるものは植物の種子や園芸道具くらい。
ゲーム機も電化製品も服飾品も、チャンミンは「いらないし、わからない」と言って首を振っていた。
クルーザーが欲しい、と請われれば、買ってやっただろう。
それくらい、俺はチャンミンの言いなりだ。
洋服に関しては相変わらず興味がないようで、俺が代わって適当に見繕ってやっていた。
日に1度、近所を散歩する程度で、自宅にこもりっきりの生活じゃあ、欲しいものは見つからなくても当然か。
もっと、いろんなところに連れていってやらないと。
「お兄さんは、一日中パソコンに向かってますね。
お仕事ですか?」
「チャンミンご所望のあれこれを注文しているところだよ」
「ありがとうございます」
「インターネットの使い方、教えようか?
そうすれば、自分で好きな時に好きなだけ注文ができるぞ?
調べ物もできるし、便利だそ?」
そう勧めたら、ディスプレイをじっと眺めていたチャンミンは、「僕は...いいです」と首を左右に振った。
「簡単だよ」
俺は立ち上がり、チャンミンの腕を引いて椅子に座らせた。
ぎこちなくマウスを動かすチャンミンの手に、俺の手を重ねた。
俺の手よりも一回り小さな手だった。
「電源を入れたら自動でインターネットに繋がるように設定しておくよ。
矢印マークをここだ、と思ったところで、クリックする...カチッとする。
そうそう...上手い上手い」
チャンミンを褒めると、俺を振り仰いで嬉しそうに目を細めた。
俺はかみ砕いた言葉で辛抱強く、操作手順を教えてやった。
チャンミンは飲み込みの早い、優秀な生徒だった。
「このサイトなら、食べ物からチャンミンの欲しい道具も花もなんでも手に入るんだ。
で、ここをクリックすると...注文確定、だ」
チャンミンの顔を覗き込んだ。
「あれ?」と思った。
新しい世界が広がって、その眼は期待感で輝いていたけれど、どことなく戸惑ったような不安感をたたえていたからだ。
「お兄さん...」
チャンミンは椅子をくるりと回転させると、俺の首にしがみついてきた。
「インターネットを覚えたから、ご褒美をください」
力強く引き寄せられ、前かがみになった俺はバランスを崩して、デスクに手をついて支えた。
「ご褒美って何?」
チャンミンが何を欲しがっているのか分かっていた。
未だ躊躇の意識が根づいている俺は、誤魔化すために、PCのディスプレイを指さした。
「欲しい物を注文してみたら?
練習代わりに?」
「いい加減にしてください!」
チャンミンの鋭い声に、ディスプレイを指していた手で彼の肩を抱いた。
「お兄さんが僕を抱けずにいるワケは、馬鹿な僕の頭でも分かります」
「チャンミンは馬鹿じゃない。
自分のことをそんな風に言ったらいけない」
「お兄さんは『お客』で、僕はお金をもらってえっちをする『犬』でした。
お兄さんはひと晩どころか、お金をいっぱい払って、僕を買い取りました。
買い取るには、いっぱいいっぱいお金がいります。
お兄さんのおうちに僕を住まわせてくれて、せっかく僕を買い取ったのに、お兄さんは僕とえっちをしてくれません。
『チャンミンはもう、犬じゃないし、俺も客ではない』って、しょっちゅう話していましたよね?
分かってます。
お兄さんの優しさだって。
人間らしい生活を送って欲しい、って思ってくれているって。
でもね、僕は不安なんです。
僕の価値は、僕の身体を使ってどれだけ気持ちよくなってくれるか、なんです。
僕の不安はえっちをすることでしか消えません」
チャンミンがこれほど多くの言葉を話したことは初めてだった。
ずっと胸の中に仕舞ってきた本心なんだろう。
俺自身の信念みたいなものが、チャンミンを不安にさせてきたのだ。
チャンミンの中に、俺に対する恋心のようなものが存在しているかどうかは、現段階では分からない。
チャンミンには『抱いて欲しい』とねだることによって、感謝と愛情を表現できないだけだ。
『犬』出身のチャンミンとどう接すればいいのか?
チャンミンにしてやってきた行動は正解だったのだろうか?
性的な接触は避けるべきだ...俺もチャンミンも『犬』出身なんだから。
そんなことばかり頭で考えて、自問自答を繰り返してきた約2か月間だった。
「僕とえっちをしてください」
俺の耳元で囁くチャンミンの吐息が熱かった。
ぞくり、とした。
「分かった。
ここじゃなんだから...。
寝室に行こうか?」
チャンミンの唇を塞ぐと、俺の唇を割って彼の舌が侵入してきた。
口内で舌どうしを絡め合い、寝室までの距離をもどかしく、足をもつれさせる。
互いの背中を何度も抱き直す。
もっと早く、こうしていればよかったのだ。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]