~ユノ~
チャンミンはタクシーのシートに座ったまま、下りようとしなかった。
「チャンミン?」
手をひくと、意固地に抵抗する程でもなくチャンミンは俺に従った。
早朝の裏通りは薄汚く、色彩が抜けた光景となっていた。
汚物を洗い流したとみられる濡れた路面、煙草の吸殻、空きペットボトル、チラシと割引チケット、丸めたティッシュペーパー、女性ものの下着。
夜間はきらびやかで派手な電飾、誇大広告看板は、品定めする通行人の心を躍らせる。
電柱にもたれて項垂れた中年サラリーマン風は、泥酔したまま朝を迎えたのか。
ラブホテルの正面をちょうど通り過ぎようとした時、アーチから中年男性が出てきた。
地面にへたり込んでいた先程のサラリーマンとは正反対に、仕立てのよさそうなスーツを着こなしたビジネスマン風だった。
彼は大通りの方向へ立ち去っていった。
数秒遅れて、若い男が通りへと出てきた。
やや小柄で明るい髪色で、チャンミンほどではないが整った顔をしていた。
中学生といっても通用しそうな童顔をしていたが、俺が見るところ20代半ば。
漂わせている空気とうつろな眼...さんざん目にしてきたものだから、よくわかる。
若い男は俺たちに気づくなり、無表情を驚愕のものへと瞬時に変えた。
彼は俺ではなく、隣にいるチャンミンを凝視していた。
チャンミンもその大学生風の登場に、目を丸くし言葉をなくしていた。
「どうした、知り合いか?」
俺たちは立ち止まっていた。
二人の様子は、とても友人同士の再会といったものじゃない。
チャンミンの知り合いとは、店関係の者に限られているはずで、あの身なりのいい男だったら客のひとりだと想像はつくのだが...。
若い男とチャンミンは、『犬』仲間だ...あの店の。
驚嘆ののち、若い男は笑顔になると「久しぶり」と言った。
口元だけ歪めたその笑顔は目が笑っておらず、斜に構えた、非情とは違う意味の無関心さがあった。
あの夜、あの店を訪れた俺は、一番人気で一番高額な...店奥のショーウィンドウに展示された...チャンミンしか見ていなかった。
通路の両サイドに並ぶガラスケースの『犬』たちの中に、この男もいたのかもしれない。
品定めする客になったつもりでいながら、悪趣味な商品のディスプレイ方法にげんなりしていたため、『犬』たちの顔はろくに見ていなかった。
「へえぇ、あんた、この人に買われたんだ。
へえぇぇ、羨ましいな」
その言葉遣いは彼の童顔に不釣り合いなもので、妬みと嫌味がこめられていた。
「じじいじゃなくて、まだ若いじゃん。
金持ってんだな、この人?」
若い男に全身を観察される間、俺は妙な緊張感で背筋が強張った。
チャンミンは若い男の問いに答えず、俺に身を寄せ、腕をからませてきた。
「お前こそ...外に出してもらえたんだろ?
...さっきの人?」
通りの向こうを指さすチャンミンに、若い男は「そうだったら、最高なんだけどな」と答えた。
チャンミンは、「それじゃあ、買い取った主人はどこに?」と、意味が分からない風だった。
若い男はさらに口を歪めて、嘲笑した。
「俺には『主人』はいないよ。
正真正銘の自由だ。
...自由過ぎて、俺は困っているくらいだ。
それに...さっきのおっさん?
こずかい稼ぎだ。
『犬』が染みつき過ぎてる自分が......ホント、嫌になるよ」
と、ここまで自嘲気に話すと、若い男は「じゃあ」と手を上げた。
チャンミンも片手を持ち上げるだけの挨拶、若い男はビジネスマンとは逆方向へと歩み去っていった。
若い男の装いはカジュアルであっても、仕立てやブランドロゴから決して安物ではなかった。
まあまあな生活をしているようだったが、彼の暗い眼が気になった。
「彼の名前は?」
「知らないです。
『犬』同士、名前を呼び合うことなんてありません。
みんなライバルです、仲が悪いのです」
「...悪かった」
チャンミンの固い表情に、安心させようと彼の肩を抱いた。
俺たちがいる通りから、車が1台通るのがやっとの裏道に、さらに足を踏み入れる。
看板灯もほとんど出ておらず、果たして営業している店舗などあるのだろうかと、不安になるような通りだ。
そこは間口がわずか2メートル、窓のないドアがあるだけの、何を提供する店なのかぱっと見には分からない店構えだ。
ドアの脇に防犯カメラとインターフォンが取り付けられている。
鍵穴の上に12個のボタンが並んでいる。
今はカメラの赤いランプは消えている。
「お兄さんっ...どうして?
どうしてここに?」
俺の腕の下で、チャンミンの顔色は真っ青になっていた。
俺が何をしようとしているのか、全く予想がつかなくても仕方がない。
俺自身も、うまく説明がしようのない行動をしたのだから。
チャンミンの肩を抱き直し、なだめるように二の腕を擦った。
そして、後ろポケットから鍵を出し、鍵穴に差し込んだ。
すっ、とチャンミンが息を吸い込んだ音がした。
6桁の番号を押し、最後に鍵を回すと、カチリと錠が外れた電子音がした。
「......」
ドアを開け、絶句したままのチャンミンを伴って、店内へと踏み入れた。
店内は暗く、塩素の香りが立ち込めている。
チャンミンは俺を食い入るように、信じられないといった表情で見つめている。
「今のオーナーは俺だ」
「!」
「あの夜、ここに来たのは...俺は荒れていた。
...古巣を覗いてみたくなった」
「......」
「店で最も高級な『犬』を買ってやろうと思った。
金の使い道を探していたんだ」
「......」
「俺という人間を見損なったか?」
チャンミンの眼は大きく見開き、口もぽかんと開いたままだった。
「チャンミンと出逢った。
自由にしてやろうと思った」
「......」
「お前と暮らすうち、この店を消してしまおうと思った。
全部...土地も建物も...」
俺はぐるりと店内を見回した。
「囚われの『犬』も全部、俺が買った」
「......」
「今まで黙っていて悪かった」
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]