あなたのものになりたい(24)

 

~ユノ~

 

チャンミンはタクシーのシートに座ったまま、下りようとしなかった。

 

「チャンミン?」

 

手をひくと、意固地に抵抗する程でもなくチャンミンは俺に従った。

 

早朝の裏通りは薄汚く、色彩が抜けた光景となっていた。

 

汚物を洗い流したとみられる濡れた路面、煙草の吸殻、空きペットボトル、チラシと割引チケット、丸めたティッシュペーパー、女性ものの下着。

 

夜間はきらびやかで派手な電飾、誇大広告看板は、品定めする通行人の心を躍らせる。

 

電柱にもたれて項垂れた中年サラリーマン風は、泥酔したまま朝を迎えたのか。

 

ラブホテルの正面をちょうど通り過ぎようとした時、アーチから中年男性が出てきた。

 

地面にへたり込んでいた先程のサラリーマンとは正反対に、仕立てのよさそうなスーツを着こなしたビジネスマン風だった。

 

彼は大通りの方向へ立ち去っていった。

 

数秒遅れて、若い男が通りへと出てきた。

 

やや小柄で明るい髪色で、チャンミンほどではないが整った顔をしていた。

 

中学生といっても通用しそうな童顔をしていたが、俺が見るところ20代半ば。

 

漂わせている空気とうつろな眼...さんざん目にしてきたものだから、よくわかる。

 

若い男は俺たちに気づくなり、無表情を驚愕のものへと瞬時に変えた。

 

彼は俺ではなく、隣にいるチャンミンを凝視していた。

 

チャンミンもその大学生風の登場に、目を丸くし言葉をなくしていた。

 

「どうした、知り合いか?」

 

俺たちは立ち止まっていた。

 

二人の様子は、とても友人同士の再会といったものじゃない。

 

チャンミンの知り合いとは、店関係の者に限られているはずで、あの身なりのいい男だったら客のひとりだと想像はつくのだが...。

 

若い男とチャンミンは、『犬』仲間だ...あの店の。

 

驚嘆ののち、若い男は笑顔になると「久しぶり」と言った。

 

口元だけ歪めたその笑顔は目が笑っておらず、斜に構えた、非情とは違う意味の無関心さがあった。

 

あの夜、あの店を訪れた俺は、一番人気で一番高額な...店奥のショーウィンドウに展示された...チャンミンしか見ていなかった。

 

通路の両サイドに並ぶガラスケースの『犬』たちの中に、この男もいたのかもしれない。

品定めする客になったつもりでいながら、悪趣味な商品のディスプレイ方法にげんなりしていたため、『犬』たちの顔はろくに見ていなかった。

 

「へえぇ、あんた、この人に買われたんだ。

へえぇぇ、羨ましいな」

 

その言葉遣いは彼の童顔に不釣り合いなもので、妬みと嫌味がこめられていた。

 

「じじいじゃなくて、まだ若いじゃん。

金持ってんだな、この人?」

 

若い男に全身を観察される間、俺は妙な緊張感で背筋が強張った。

 

チャンミンは若い男の問いに答えず、俺に身を寄せ、腕をからませてきた。

 

「お前こそ...外に出してもらえたんだろ?

...さっきの人?」

 

通りの向こうを指さすチャンミンに、若い男は「そうだったら、最高なんだけどな」と答えた。

 

チャンミンは、「それじゃあ、買い取った主人はどこに?」と、意味が分からない風だった。

 

若い男はさらに口を歪めて、嘲笑した。

 

「俺には『主人』はいないよ。

正真正銘の自由だ。

...自由過ぎて、俺は困っているくらいだ。

それに...さっきのおっさん?

こずかい稼ぎだ。

『犬』が染みつき過ぎてる自分が......ホント、嫌になるよ」

 

と、ここまで自嘲気に話すと、若い男は「じゃあ」と手を上げた。

 

チャンミンも片手を持ち上げるだけの挨拶、若い男はビジネスマンとは逆方向へと歩み去っていった。

 

若い男の装いはカジュアルであっても、仕立てやブランドロゴから決して安物ではなかった。

 

まあまあな生活をしているようだったが、彼の暗い眼が気になった。

 

「彼の名前は?」

 

「知らないです。

『犬』同士、名前を呼び合うことなんてありません。

みんなライバルです、仲が悪いのです」

 

「...悪かった」

 

チャンミンの固い表情に、安心させようと彼の肩を抱いた。

 

俺たちがいる通りから、車が1台通るのがやっとの裏道に、さらに足を踏み入れる。

 

看板灯もほとんど出ておらず、果たして営業している店舗などあるのだろうかと、不安になるような通りだ。

 

そこは間口がわずか2メートル、窓のないドアがあるだけの、何を提供する店なのかぱっと見には分からない店構えだ。

 

ドアの脇に防犯カメラとインターフォンが取り付けられている。

 

鍵穴の上に12個のボタンが並んでいる。

 

今はカメラの赤いランプは消えている。

 

「お兄さんっ...どうして?

どうしてここに?」

 

俺の腕の下で、チャンミンの顔色は真っ青になっていた。

 

俺が何をしようとしているのか、全く予想がつかなくても仕方がない。

 

俺自身も、うまく説明がしようのない行動をしたのだから。

 

チャンミンの肩を抱き直し、なだめるように二の腕を擦った。

 

そして、後ろポケットから鍵を出し、鍵穴に差し込んだ。

 

すっ、とチャンミンが息を吸い込んだ音がした。

 

6桁の番号を押し、最後に鍵を回すと、カチリと錠が外れた電子音がした。

 

「......」

 

ドアを開け、絶句したままのチャンミンを伴って、店内へと踏み入れた。

 

店内は暗く、塩素の香りが立ち込めている。

 

チャンミンは俺を食い入るように、信じられないといった表情で見つめている。

 

「今のオーナーは俺だ」

 

「!」

 

「あの夜、ここに来たのは...俺は荒れていた。

...古巣を覗いてみたくなった」

 

「......」

 

「店で最も高級な『犬』を買ってやろうと思った。

金の使い道を探していたんだ」

 

「......」

 

「俺という人間を見損なったか?」

 

チャンミンの眼は大きく見開き、口もぽかんと開いたままだった。

 

「チャンミンと出逢った。

自由にしてやろうと思った」

 

「......」

 

「お前と暮らすうち、この店を消してしまおうと思った。

全部...土地も建物も...」

 

俺はぐるりと店内を見回した。

 

「囚われの『犬』も全部、俺が買った」

 

「......」

 

「今まで黙っていて悪かった」

 

 

(つづく)

 

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