(38)あなたのものになりたい

 

 

~チャンミン~

 

朝晩の冷え込みが厳しく、日が短くなるにつれ、お兄さんとの散歩の時間も早まっていった。

 

真夏の深夜の散歩では、熱のこもった地面や薄着にサンダル履き、オフィス街を歩く者は僕らだけなのに、なぜか浮かれた空気が漂っている。

 

そのワケを探りたくて、飲み屋街へとお兄さんを引っ張っていった。

 

毒々しいネオンサインは、人々の欲を誘う。

 

暑くなるとみんな、あれがしたくなるみたいだ。

 

暑いせいで肌の露出が多い恰好で、男や女を誘っているんだ。

 

羽目を外したがっているんだ。

 

こういうことは、僕には分かるんだ。

 

その浮かれた空気と喧騒がオフィス街まで流れ込んできているせいで、無人なのにも関わらず、僕を興奮させるらしい。

 

お兄さんをビルとビルの隙間に連れ込んだこともあった。

 

僕はお兄さんの前でしゃがみ込み、彼のものを口にふくんだ。

 

お兄さんは僕の大胆な行動にびっくりしていた。

 

一転、冬の街。

 

オフィス街は暗く固く、よそよそしくて、足音がよく響くのは空気がきりっと引き締まっているからだと思う。

 

分厚いコートやマフラーに身を包み、足早にその場を去ろうとする人々で、空気だけじゃなく雰囲気までピリピリとしているように感じられた。

 

すぅっと息を吸ってみる。

 

その空気の冷たさに、血が通った温かい肉体を持つことを感謝した。

 

季節の移り変わりを肌で感じる...初体験だった。

 

「さむっ...」

 

マフラーに顎をうずめ、お兄さんと繋いでいた手を放して、彼の腕にしがみついた。

 

くんくんとお兄さんのコートの匂いを嗅いだ。

 

落ち着く匂いだ。

 

靴に踏まれ粉々になった落ち葉の残骸が、縁石の縁に固まっている。

「雪...見てみたいなぁ」

ぽつりとつぶやいたら、お兄さんは僕の肩を抱き寄せた...ちょっと強引な感じに。

 

「待っていれば近いうちに降るよ」

 

「雪だるま、作れますかね?」

 

「うちにはバルコニーがあるじゃないか」

 

「楽しみです」

 

 

 

「10ケースから全部空になったのは1ケース。

次のケースは8本空になったのだから、全部で12足す8イコール20本空になった。

120引く20イコール100本。

あと100本かぁ」

 

僕はパントリーに積み上げられたケースを前に、計算をしていた。

 

僕が間違って注文してしまい、イチゴのリキュールが120本届いたのは初夏のことだ。

 

当時の僕はかろうじて数字を認識できる程度で、文章を読むことが出来なかった。

 

お兄さんと幾晩もお酒を楽しみたかった僕は、1本じゃ足りないから10本注文することにしたのだ。

 

説明書きにあった1ダースの単位も知らなかったし、12本入りを見落としていた。

 

カートに乗せた10個のケースを、配達員さんは汗をかきかき運びこんだ日。

 

玄関に積み上がられたイチゴリキュールが詰まったケース。

 

自分はいったい何をやらかしてしまったのかと、ワケが分からなくなった。

 

「半年で20本飲んだから、20割る6イコール3本と余りが3。

1か月で3本と0.3本。

違う違う。

こんな面倒な計算はしなくてよくて...1年で40本と考えればいいんだ。

100割る40イコール2.5。

これを全部飲んでしまうのに2年半はかかるかぁ...」

 

2年半後もお兄さんの隣にいられたらいいなぁ...。

 

「さっきからぶつぶつとどうした?」

 

計算に必死になっていて、パントリーに入ってきたお兄さんに気付けなかった。

 

「全然減らないなぁと思って、計算していたんです」

 

「義務みたいに飲まなくていいんだ。

飲みたい時にちびちびと、ゆっくりと消費してゆけばいい」

 

「そうですね。

慌てなくていいんですね」

 

僕はお兄さんに抱きついて、彼の首筋をぺろぺろした。

 

「こらっ!」

 

「おに~さん。

えっちしたいです」

 

甘えた僕はお兄さんの首にぶら下がった。

 

 


 

 

~ユノ~

 

あの店を解体し、更地にする計画が実行された。

 

その際、ある注文を解体業者に依頼していた。

 

それは、パーソナルな物を発見したら破棄したりせず、必ず俺の元へ提出すること。

 

チャンミンをはじめとする『犬』たちは、着の身着のまま『犬』にやつし、自ら覚悟を持って店に来た者を除いて、私物を持ち込む余裕はそれほどない。

 

小さなロッカーは与えられているが、収納したい物などわずか。

 

いくつの頃から『犬』でいたのか定かじゃないチャンミンの場合、私物はほとんどないだろう。

 

前の買い主から用意されたTシャツとデニムパンツ、スニーカーだけだったし、チャンミンから「取りに行きたい」という要望は一度もなかった。

 

でも、もしかしたら何かチャンミンにまつわるものが出てくるかもしれない。

 

チャンミンの過去について知らないことだらけの俺は、もっと彼を愛したくて、彼を知りたいと思ったのだった。

 

 

報告があった。

 

チャンミンが店一番の売れっ子になり、ガラス張りのショーウィンドウに飾られる前、彼が寝床として使っていた寝台から見つかった。

 

それは、マットレスとフレームの隙間に隠された、ビニール袋にくるまれた茶封筒だった。

 

手紙だった。

 

粗末な便箋で、チャンミンの手によって何度も開かれたらしく、折り目が破れかけていた。

 

チャンミンの話は本当だった。

 

俺は今まで、チャンミンの一体何を見てきたのだ?

 

俺はただチャンミンを抱くだけで、彼の身体を堪能しただけだったのではないか?

 

チャンミンはこう話していた。

 

『捕まって...売られちゃったんですよねぇ。

家族とはずーっと会ってません。

でも、「頑張ってね」「チャンミンのおかげで、幸せに暮らせてるよ」って、手紙をくれたんですよ』

 

手紙の話はチャンミンが強がってついた嘘だと、思い込んでいた。

 

こうあって欲しいと、願望を口にしただけだと。

 

たった1通の親からの手紙。

 

手紙の話は本当だった。

 

チャンミンは文字が読めなかった。

 

だから、手紙の内容はチャンミンの想像と理想。

 

手紙の存在を信じなかった自分が情けなかった。

 

その手紙は読めなかった。

 

これはチャンミン宛の手紙だ。

 

俺が読むべきではない。

 

 

(つづく)

 

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